韓国最大の遊郭の秘密…
世界遺産の軍艦島に朝鮮人専用の遊廓があった…
世界遺産の軍艦島に朝鮮人専用の遊廓があった
世界遺産「軍艦島」に朝鮮人用の遊郭があった。
明治の本の産業遺産23施設の一つとして
ユネスコから世界遺産として認められた
長崎県の軍艦島はいま多くの観光客で賑わっている。
しかし、世界遺産になるまでには
韓国側の大きな反対で調整が難航した。
韓国が反対した理由は例によって歴史問題です。
「23施設のうち7施設で朝鮮半島出身者5万79000人が強制労働させられた」
というのが韓国の言い分だが、はたしてそれは事実なのか。
韓国最大の遊郭の秘密
軍艦島では1890年から石炭の採掘が始まった。
算出される石炭は良質で八幡製鉄所の原料炭として供給されるなど
日本の近代化の基幹的な役割を担ってきた。
最盛期の1950年台には周囲1.2キロの島に5300人が暮らし、
世界最大の人口密度を記録。
しかし、1974年に閉山すると
島民が一斉に退去し、無人島となった。
NPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」理事長の坂本道徳氏は
小6〜高3まで軍艦島で暮らしていた。
坂本氏が当時の生活を振り返る。
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「親父が炭鉱マンで筑豊から移住したんですが、
生活レベルが全然違いました。当時はまだテレビはあまり普及してなかったんですが、
この島には殆どの家にテレビも洗濯機も冷蔵庫もあった。うちでもすぐに揃いました。
仕事はキツくても給料は筑豊よりだいぶ良かったと思います。」
住んでいたのは軍艦島最大規模の65号棟の高層アパート。
6畳と4畳半に一家5人暮らしだったが、
「当時の平均的な社宅はそんなものでしょう」
と坂本氏は懐かしむ。
商店街やパチンコホールなどの娯楽施設も充実していた。
さらに、1957年に売春防止法が施工されるまでは遊郭もあった。
「父親の話によれば、3軒の遊郭があり、
そのうち1軒は朝鮮人専用だったそうです。」
軍艦島に10年以上通い、
元島民たちの話から遊郭の存在を確認したのが、
軍艦島入門を刊行した黒澤永紀氏。
「遊郭と言っても兵で囲われた郭状のものではなく
単体の店、つまり遊女屋ですが、
元島民たちはみんな遊郭と呼んでいました。大正時代、すでに島には遊郭が7軒あり、
女性は20人位いたとのことです。1軒3人位の計算ですね。」
昭和になってからは島の南にある
南部商店街と呼ばれる地域に3軒の遊郭があった。
1933年の長崎新聞に遊郭「本田」の記事が取り上げられている。
「炭粉にまみれた鉱夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれる。
これもまた端島の持つ一断面である」
と。この遊郭の「本田」と「森本」が日本人用の遊郭、
そして、「吉田」が朝鮮人専用でした。
「吉田」は遊女も朝鮮人。
朝鮮人専用の遊郭を作った理由は言葉の問題もあったろうし、
なにより朝鮮人労働者が多かったということでしょう。
いずれにしても、
朝鮮人の日本人と同じように遊郭で遊べたのです。
海底炭鉱での労働は命がけ。
そのため労働者は労務が終わると酒を飲み、
「性のはけ口」を求めて遊郭通いをしていたのだろう。
みんなはどう思ってる!?
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以下は国民の意見
・随分待遇良いなおい!
・朝鮮人がチョウセンジを買春でも日本のせいにするニダ
・これは新たなる性奴隷案件だな。
・そりゃチョン用の遊郭なかったら狭い島の中で
レイプが頻発して大変なことになっていたでしょ。
ネットでの反応
・炭鉱で危険な所は日本人鉱夫が比較的に安全な所は
朝鮮人鉱夫が従事したと聞いたことがある。・慰安婦がだめなら軍艦島があるさあ~~。
・たぶん、強制的に遊ばされたといいかねないのが、今のバカ韓国。
妄想と捏造の行き着く先は、いつも手酷い結果だな。
こんな奴等と、友好などはとてもムリ。・どれだけ嘘が好きな国民だ、何でも捏造して金をせびる、
たちの悪いチンピラの様な国が韓国、嘘を作ってはゆすりたかり、
プライド等は無いのか、恥ずかしい国だ。
羞恥心の無い人種だからしかたないか。
きらびやかな吉原遊郭の裏側で。。。
性に関する切実な問題がたくさんあった・・・
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江戸時代の娯楽の一つに、吉原遊郭での豪遊というものがあります。
豪華絢爛な吉原遊郭は、江戸の中にありながら江戸とは異なるルールで動いている異世界のようなものでした。
地方から江戸にやってきた人は「せっかく江戸まで来たんだから、吉原で人気の花魁を眺めにいこう」と言って吉原見学を楽しんでいたと言われていますので、今で言うところの大型テーマパークのような扱いだったのかもしれません。
そんな華やかな吉原遊郭には、何千人もの遊女たちが文字通り体を使って働いていました。そして、そこで働く遊女たちを悩ませ怖がらせていたのが「性病」「月経」「妊娠」でした。
月経をどう乗り切っていたのか?
10代になった頃に始まる月経は、一か月の内、約4~7日間に渡って訪れます。
当時の女性たちは紙を折って局部に当て、その上から男性の褌(ふんどし)のようなものを締めて血が垂れないようにしていました。
もしくは、折りたたんだ紙を直接局部に挿入するということもあったようです。
江戸時代は性に対してとても奔放でしたが、月経になっている間だけは夫婦間でも性行為を控える傾向にありました。
かつて月経は『穢れ(けがれ)』とされることがありましたので、それに由来するのかもしれません。
しかし、遊女も同じように性行為を自粛していたかというと、それは難しかったのではないかと考えられます。
遊女たちには莫大な借金が背負わされており、それを返済していかなければなりません。
遊女を抱えている妓楼も、働いてもらわないと売上になりませんから、なんとしても稼いでもらわないといけません。
恐らく遊女たちには生理休暇のようなものはほとんど無かったと考えられます。
遊女のほぼ100%は性病にかかっていた?
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まともな避妊具の無かった江戸時代、一般人の約50%は性病にかかっていました。
日本に来た西洋人医師たちは「どうしてこんなに罹患者が多いのだろう」と驚いたといいます。
このような時代でしたので、毎晩性行為をしていた吉原の遊女たちは、ほぼ100%梅毒や淋病にかかっていました。特に多かったのが梅毒です。
梅毒は抜け毛や性器の異常などの初期症状から、一定期間の潜伏期間(約3年くらい)を経て皮膚や筋肉にゴムのような腫瘍ができ、やがて臓器や骨や脳を蝕み死亡します。
現代では潜伏期間前に治療されてしまうので、死亡する事は非常に稀です。
一般的な病気に比べて進行も遅く潜伏期間が長いので、潜伏期間に入って「もう治った!」と勘違いされていたのでしょう。
吉原では梅毒は一度かかると二度とかからないと信じられており、梅毒になった遊女は一人前で商品価値が高い貴重な存在とされていました。
しかし、数年後には症状は進行し、顔や体は醜く崩れ精神にも異常をきたしていきます。
性病にかかった遊女は、このような悲惨な病気の進行に耐え切れずに自殺するか、合併症で死亡することが非常に多かったのです。
遊女は妊娠したらどうするの?
避妊をしないで性行為をしていたにも関わらず、吉原で働く遊女たちが妊娠する確率はそこまで高くなかったようです。
これは性病と過酷な労働環境で不健康な状態だったため、若い娘であっても妊娠しにくい体になってしまっていたものと考えられます。
ですが、やはり妊娠する遊女はいました。
遊女を抱えている妓楼にとって遊女の妊娠は厄介なものでしたから、医師を呼んで色んな方法で堕胎させました。
よく使われていた方法は、ほおずきの実を使って堕胎させる方法です。ほおずきにはヒストニンという子宮の緊縮作用がある成分が含まれており、これを飲んで流産させるというものです。
他にも「冷水に何時間も浸かる」「串を局部に挿入し子宮を突き刺して流産させる」「水銀を飲む」といった恐ろしい方法がありました。
しかし中には出産する遊女もおり、生まれた子が男の子の場合はよそに里子に出されました。
女の子の場合は遊女として将来働かせるため、遊郭の中で育てられたそうです。
華やかな吉原遊郭の暗部とも言えるところを紹介してきましたが、いかがでしたか?
遊郭で働く遊女たちのほとんどは、地方の貧しい農家から売られてきた娘たちでした。
田舎の家族のため……と過酷な労働を強いられていた娘たちの、こういった影の部分を知ると、吉原遊郭の絢爛さがとても刹那的に見えてきますね。
性病や妊娠といったものを犠牲にしてるのだから、さぞかし稼いでいたのだろうと思われがちですが、実際は収入のほとんどを妓楼に取られてしまい、手元に残るお金は微々たるものだったようです。
また、一生懸命働いて借金を返済して里に帰れるかというと、それも難しく、年季明けの27歳になる前に病気で亡くなったり、借金を返せず27歳を過ぎても他で体を売って働かなくてはならず、一生吉原から出られない……という悲しい現実がありました。
このような悲しく暗い実情が吉原遊郭の魅力の一つなのかもしれません。
引用元:http://kwsklife.com/korean-prostitution/