サンサーラ速報❗️

【涙腺崩壊】のび太『あれからもう10年か……』ドラえもんがいなくなってからののび太の成長、ドラえもんのその後が泣ける・・・

 

ドラえもんがいなくなった世界

のび太「ドラえもんが消えて、もう10年か……」

思わず、曇り空に向かって呟いてしまった。

高校を卒業した後、僕は大学には行かなかった。確か、ドラえもんは僕が1浪して大学に行くと言ってたけど、大学は到底無理だった。

今僕が働いているのは、しがない中小企業だ。これも、ドラえもんが言っていたのとは違う。就職活動に失敗することもなく、起業することもなく、高校卒業した後に、いとも普通に就職をした。

……まあ、これが人生なのかもしれない。ちょっとしたことで、未来は変わるのかもしれない。
未来ってのは、なんとも脆いものなんだろうな。

会社での生活は、学校の時と何一つ変わらない。

毎日上司に怒られて、落ち込んで……

――だけど、あの頃と違うものもある。

ローカル線沿いにある小さな古いアパートが、今の僕の家だ。

実家から通うことも出来たけど、父さんも母さんももう歳だ。僕が独り立ちすれば少しは安心するだろうし、穏やかな老後を過ごすことが出来るだろう。

薄暗い部屋の電気を付ければ、1Kの小さな部屋に明かりが灯される。

部屋には必要最低限のものしかない。テレビ、冷蔵庫、コンロ、電子レンジ……

寂しい部屋ではあるが、これが、僕の住まいだ。

誰もいない部屋の隅に鞄を置き、スーツのままボロボロの畳に寝転がった。

 

 

もう見慣れた天井。相変わらず染みだらけだ。スーツもずっと着続けているからか、ところどころ色落ちしている。

「………」

――ふと、部屋の片隅にある事務机に目をやった。

机の上には仕事のために買ったノートパソコンと、仕事で使う資料が置かれている。マンガはない。

布団から立ち上がり、机に歩み寄る。そして、しばらく机を見つめた後、静かに引き出しを開けてみた。

――当然だけど、引き出しの中には、何もなかった。

次の休みの日、久しぶりに、僕らは集まった。

「――ホント、久しぶりだな!!」

ジャイアンは、相変わらず豪快に笑う。

彼は今、企業の社長をしている。高校を卒業した後、彼は一度就職した。だが、そこはかなりのブラック企業だったらしく、部下を何とも思わない心無い上司に激怒し、半ばケンカ別れのように辞職した。そして、自分で会社を立ち上げたんだ。

会社は好調のようだ。それは偏に、彼の人柄のおかげだろう。部下を大切にし、得意先に社長自ら赴き交渉する。引く時には引き、行くときには行く。彼のいい部分が、全面的に作用しているようだ。

「ジャイアン、相変わらず声が大きいなぁ……」

スネ夫は苦笑いをしながら、ビールをちびちび飲んでいた。

彼は今、デザイナーを目指している。なんでも、その道で有名な人に頼み込んで、弟子入りをしたとか。

彼は父親の会社を継がなかった。両親とはかなり口論となったようだが、父の会社を振り切り、自らの道を切り開いたんだ。今では、両親も彼を応援している。だが彼は、両親の支援を一切受けていない。『夢は自分の力だけで叶えたい』……それが、彼の言葉だった。

「二人とも、本当に立派になったよな……」

 

 

 

次のページへ続く↓↓↓

 

 

 

笑ながら話す二人を見ていて、言葉が漏れていた。

「よせやいのび太。そんなんじゃねえよ」

「そうそう。お前だって、ちゃんと働いてるじゃないか」

「……僕は、ただそれだけだよ。何かをしようとしているわけでもない。ただスーツに着替えて、会社に行って、怒られてるだけだ……」

「……そんなに卑屈になるなよ。働いてるってのは、大人になったってことなんだよ」

「そ、それより、今日はしずかちゃんは来ないの?」

スネ夫は慌てながら話題を逸らした。気を、遣わせてしまったかもしれない。

「……しずかちゃんは、今日は仕事だよ」

「そっか……残念だな」

「しょうがないよ。しずかちゃんは、大手の企業に勤めているからね。――出木杉と一緒に……」

「………」

それから、僕らは夜遅くまで宴会をして別れた。

二人とも、立派に自分の道を歩いている。……片や、僕はどうだろう……

(……僕は、ダメだな……)

考えれば考える程、鬱な気持ちになってくる。もしドラえもんがいたのなら、助けてくれたかもしれない。

……でも、彼はもういない。そして、いくら考えても、何か現状が変わるわけでもない。

(……帰るかな……)

考えるのを止めた僕は、夜道を再び歩き出した。空を見上げてみたけど、あいにく星は見えなかった。雲に隠れた朧月だけが、逃げるように光を放っていた。

「――野比!!何度言わせるんだ!!」

「す、すみません……!!」

オフィスの一角で、僕は相変わらず上司に怒鳴らていた。提出した書類に、不備があったからだ。

「……まったくお前は、なぜそういつもいつもミスばかりするんだ。お前が作ってるのは、ただの紙きれじゃないんだぞ?この会社の、必要な書類なんだ。少しは自覚しろ」

「はい……」

 

 

 

この上司は、本当に口煩い。だけど、本当は優しいのも僕は知っている。以前僕がとても大きなミスを犯した時、必死に僕を守ってくれた。そのおかげで、なんとか始末書だけで済んだことがある。

感謝はしているが、こう毎日毎日怒鳴られては凹むものは凹む。

……まあ、僕が悪いんだけど……

「――大変だったね……」

落ち込み通路のソファーに座ってると、突然横から声をかけられた。

「咲子さん……」

「お疲れ様。のび太くん」

……咲子さんは、いつもと変わらない笑顔を僕に向けていた。

「――もう、のび太くんは本当にいっつも怒られてるよね」

「う、うん……ごめん……」

「なんで私に謝るのよ。だいたいのび太くんはね、ちょっと気が弱すぎるよ?もうちょっと男らしくしてみたら?」

咲子さんは、ちょっと気が強い。こうやって毎回慰めてくれてはいるが……けっこう、言葉がキツイ。

「……ってことで、ちょっと言ってみて!!」

「……え?え?」

 

 

 

 

「もしかして、聞いてなかった?」

「ああ……ご、ごめん……」

「はあ……もういいわ。――はい、じゃあ私の言葉に続いて!」

「う、うん!」

「――今度!」

「こ、今度!」

「お礼に!」

「食事でも!」

「行きませんか?」

「――ええいいわ!行きましょ!」

「………へ?」

次の休日、僕はなぜか咲子さんと街を歩いていた。

……そう言えば、紹介が遅れていた。

花賀咲子さんは、僕の仕事場の同僚だ。小学生の時にドラえもんが道具の“ガールフレンド・カタログ”で見たことがあった。……もっとも、それを思い出したのは、ごく最近だが。

咲子さんは、職場では人気者だ。仕事が出来て、明るくて、世話好き。彼女がいるところからは、いつもみんなの笑い声が聞こえてきていた。

僕は、咲子さんとは同期になる。同じ時期に入社したのだが、全然ダメな僕とは全然違う。

 

 

 

正直に言えば、少しだけ、嫉妬してしまってる。

「――それでのび太くん。今から、どこに連れてってくれるの?」

「え、ええ?僕が決めるの?」

「当然でしょ。男なんだし」

「……それは偏見だよ……」

「いいから!ほら、さっさと決めて!」

無茶振りされても困る。こうやって女の人と出かけたことなんて、しずかちゃんぐらいしかないのに……

でも、咲子さんは何かを期待するように僕を見ていた。何か決めないと、またどやされる。

「……じゃあ……え、映画…とか?」

「う~ん……ちょっとベタすぎるけど……まあ合格ね。――さ!行きましょ!」

僕の前で一度クルリと回った咲子さんは、そのまま歩き出した。しかたなく、僕もそれに続くのだった。

「」

「――面白かったね!!」

「う、うん……」

映画館を出た後、咲子さんは上機嫌だった。よほど気に入ったようだ。

 

 

 

 

映画は、咲子さんが選んだ。というより、僕は何もしていない。映画館に着くなり、咲子さんは有無を言わさずその映画のチケットを購入したからだ。

咲子さんが選んだ映画は、外国の恋愛ものだった。まあ、よくあるパターンの映画だから、内容は割愛しよう。

ただ、僕としては少し退屈なものだった。もちろん、それは彼女には言わないけど。だって彼女はこんなに上機嫌なんだ。それにわざわざ水を差すこともないだろう。

「ねえねえ!次、どこ行こっか!」

「つ、次?ええと……」

「もう……女の子とデートするんだよ?デートプランくらい立ててよね」

「で、デート!?」

「何驚いてるのよ。当然じゃない」

「ま、まあそうなんだけど……」

……全然、そんな自覚なかった。昼過ぎに集まるように言われてたから、晩御飯まで時間つぶしのために映画を選んだんだけど……これは、デートだったのか……

「まあいいわ。じゃ、ついて来て」

「え?で、でも……」

「いいからいいから!ほら!」

咲子さんは、僕の腕を引っ張り始めた。人通りの多い道路を、僕らは歩く。すれ違う人は不思議に思うかもしれないな。笑顔で男を連れまわす女性と、腕を引っ張りまわされる男。

(完全に、立場が逆だな……)

そうは思いつつも、なされるがままになるしかなかった。

「――ふ~。さすがに疲れたね。ちょっと休憩しよ」

少しだけ強く息を吐いた咲子さんは、ショッピングモールの片隅にあるベンチに座り込んだ。そして僕もまた、そこに座った。

「……賛成」

さんざん町内を連れまわされた僕は、けっこう限界に来ていた。さすがの咲子さんも疲れたようだが……それでもまだ余裕がある。タフだな、この人。

「私、ちょっと飲み物買って来るね」

「うん。分かった」

「待っててね!」

そう言い残し、咲子さんは走り去って行った。遠くなる彼女の背中を見送った後、上を見上げてみた。

 

ショッピングモールの天井は透かし窓になっていて、青い空が見えていた。雲はゆっくりと進んでいる。こんな日は河原で昼寝でもしたいものだが……

「……なんでこんなことになったのやら」

心の声が、漏れてしまった。

「――あら?」

背後から、何かに気付いた声が聞こえた。どこか、聞き覚えのある声だった。僕は無意識に、後ろを振り返った。
「ん?」

そこにいた人物を見た僕は、思わず立ち上がった。

「……しずかちゃん……」

「……久しぶりね。のび太さん……」

――実に、1年ぶりの再会だった……

キタ!!!

「本当に久しぶりだね。今日はどうしたの?」

「……ちょっと職場の買い物。のび太さんは?」

「……僕も、買い物だよ」

「………」

沈黙が、僕達を包んでいた。

 

 

 

本当は色々と話したいことがあった。ジャイアンのこと。スネ夫のこと。僕のこと。そして聞きたかった。しずかちゃんのことを……

だけど、こうして思いがけず会うと、なぜか言葉たちが引っ込んでしまっていた。

それでも、言葉こそないが、とても懐かしい雰囲気だった。とても心地よい、あったかい雰囲気だった。

ただ、いつまでもこうして黙っておくわけにもいかなかった。

「……しずかちゃん、仕事忙しそうだね」

「う、うん……休みがほとんどないわ」

「そっか……大変だね」

「うん。でも、とても充実してるわ」

「そっか……。――あ、でも、体には気をつけてよ?忙しい時こそ、体調を壊しやすいんだし」

「そのあたりは大丈夫よ。相変わらず心配性ね、のび太さん。フフフ」

「しずかちゃんこそ。相変わらずだね。フフフ」

……再び、沈黙が訪れた。

いざ会うと話ができないって結構あるんだよな

・・・・

流れる沈黙の中で、必死に自分を奮い立たせていた。今しかない。今しか、チャンスはない……

震える唇を噛み締めて、ようやく、声を絞り出した。

「……ええと、しずかちゃん」

「……なぁに?」

「こ、今度、二人でご飯でも―――」

「――ごめんしずか!資料がなかなか見つからなくて!待たせてしまっ―――」

「―――」

……あと少しのとこまで来ていた言葉は、再び喉の奥へと逃げていった。いや、正確には、飲み込んでしまった。

しずかちゃんの元に駆けよって来た、その人物を見たせいで―――

 

 

「……で、出木杉……」

「……野比、くん……」

「で、出木杉さん……」

「………」

三人とも、言葉を失ってしまった。まるで石になったかのように、全員動けずにいた。

――そんな僕らに向かって、更に声がかかった。

「――のび太くんお待たせ!自動販売機が思ったより遠く…て……」

「……さ、咲子さん……」

その場に固まるのが、4人に増えてしまった。

「……やあ野比くん。久しぶりだね」

沈黙の中、一番最初に口を開いたのは出木杉だった。

「あ、ああ。久しぶりだね……」

「今日は、出木杉さんと職場の備品を買いにきてたのよ……ね?出木杉さん?」

「そうなんだ。しずかと、二人きりで、ね……」

 

「………」

久々に会った出木杉は、しずかちゃんを呼び捨てにしていた。そして、二人で出かけていたことを、やけに強調させる。

今の彼は、以前会った時とは全く違う。――まるで、僕に対して、威嚇をするようだった。

「……ところでのび太さん。その人は?」

しずかちゃんは僕の背後に立つ咲子さんに視線を向けた。

「あ、ああ。この子は……」

「―――ッ」

そう言いかけたところで、咲子さんは僕の前に出た。そして、しずかちゃんの正面に立ち、少し速めに一度だけ会釈をした。

「……初めまして。私、花賀咲子といいます。のび太くんとは、職場の同僚です」

「え、ええ……はじめまして。源しずかです。よろしく」

「……出木杉です。花賀さんは、野比くんとお出かけかな?」

「ええそうですよ。今日は、二人で出かけてるんです。」

 

 

 

「のび太くん。もう行こ」

「え?――あ、ちょ、ちょっと――」

咲子さんは、僕の手を強引に掴み、ツカツカとその場を離れはじめた。慌ててしずかちゃんの方を見る。しずかちゃんは、一度僕に視線を送り、そのまま出木杉と歩いて行った……

「………」

「……さ、咲子さん……?」

「……ね、ねえ……」

(……まいったな……)

さっきから、ずっとこの調子だ。

それまでの上機嫌とは打って変わって、とにかく不機嫌になっている。こうやって僕の前をただ歩き。一言も口にしない。

本当はしずかちゃんが気になったけど……しばらく僕の手を放してくれなかったし、こんな調子の彼女をほっとくわけにもいかず、結局しずかちゃんとの久しぶりの再会は、ほんのわずかな時間しか叶わなかった。

「……さっきの人、誰?」

 

 

 

「え?」

「さっきショッピングモールにいた人!!誰!?」

「ええと……」

……そうか、出木杉か。確かにあいつ、かなりのイケメンになってたな。身長だって高いし。

この世の中、イケメンこそ、男の中でもっとも位の高い身分なのだ……

「……あいつは出木杉って奴で、大手の企業に勤めてて……」

「――そうじゃなくて!!」

そう叫ぶと、彼女はようやく足を止めた。そしてしばらく黙り込み、ゆっくりと振り返った。

「……あの女の人……誰よ……」

「……え?」

「」

「え?えっと……しずかちゃんのこと?」

「……そうよ。その“しずかちゃん”のことよ」

彼女は目を伏せたまま、どこかふてくされたように言う。まるでおもちゃを買ってくれなかった子供のようにも見えた。

「ええと……しずかちゃんは、出木杉と同じ企業に勤めてて……」

「そういうのはいいの!のび太くんとの関係!」

 

 

「あ、ああ……しずかちゃんは、僕の小学校の時の同級生なんだよ。――あ、中学校も一緒だったか」
「ふ~ん……それで仲がいいのね………で?付き合ってたの?」

「つ、付き合う!?」

「……その反応を見る限り、付き合ってはないみたいね……」

「………」

「……ホント、分かりやすい反応するのね……ボソッ」

「……え?何か言った?」

「なんでも。――それより、ご飯食べに行きましょ。私、お腹空いちゃった」

そう言うと、彼女はまた前を向いて歩き始めた。

僕はそれ以上何も言えず、ただ彼女に付いて行くだけだった。

「――ふ~ん……出木杉となぁ……」

ジャイアンは、ソファーに座ったまま腕を組みながら声を漏らす。

ここはジャイアンの職場。つまりは、彼の会社。

 

 

彼の会社も僕の会社の取引先となっている。当然ながら、毎回商談は僕が駆り出されていたわけで、こうやって、たまに挨拶周りという名目で、話をしに来ていた。

「……そうなんだよ……」

「しかも、呼び捨て、と……」

「うん……」

「……出木杉の奴……それよりのび太、お前、それでいいのか?」

「え?」

「しずかちゃんのことだよ。お前だって分かってるだろ?――出木杉、しずかちゃんを狙ってるぞ?」

「………」

そんなこと、わかってるさ。分かってるけど……だけど……

「……僕、そろそろ戻るね……」

 

 

 

「お、おい!のび太!!」

ジャイアンの声に一度だけ足を止めたけど、そのまま会社を出ていった。何かから逃げるように。

家に帰った後、いつものように畳に寝転がった僕は、ジャイアンの言葉を思い出す。

(……これでいいのか、か……)

いいはずなんてない。出木杉に取られてもいいはずなんてない。ずっと一緒にいたんだ。ずっと、一緒になると思ってたんだ。

……だけど、実際は違っていた。しずかちゃんが女子高に進学してから、連絡を取る回数も極端に減った。高校を卒業すると、彼女は大学へ、僕は会社にそれぞれ通うようになり、連絡すらとらなくなっていた。

ごくたまに買い物に出かけたりはしていたが、しずかちゃんの仕事が忙しくなってからは、会うことはもちろん、話すことすらなくなった。

考えてみれば、しずかちゃんと疎遠になったきっかけは、中学を卒業したころかもしれない。

(……そういえば、ドラえもんがいなくなったのも、あの頃だったな……)

僕の脳裏には、セピア色の情景が甦っていた―――

――あの日僕は、進学先の調査票を片手に、家に急いで帰った。

『ドラえもん!!大変だよ!!しずかちゃんが女子高に―――!!』

……だが、僕の部屋には、誰もいなかった。

 

 

 

その時はすぐに帰ってくると思ったけど、結局夜になっても、ドラえもんは帰ってこなかった。

スペアポケットを使ってどこに行ったのか調べようと思った僕は、ドラえもんの押入を開けた。でもそこも、もぬけの殻だった。

まさかと思い引き出しを開けたら、タイムマシンすらもなくなっていた。

慌てて父さんと母さん、ジャイアンとスネ夫、しずかちゃんと一緒になって街中を探したけど、結局ドラえもんは見つからなかった。

まるで最初からいなかったかのように、ドラえもんは忽然と姿を消した。

残ったのは、記憶の中のドラえもんだけだった。

(……きっと、今の僕を見たら、キミは怒るだろうな……)

天上を見つめながら、ふと、そんなことを考えた。

僕だってしずかちゃんと結婚したい。だけど、僕なんかがしずかちゃんと結婚していいのだろうか。出木杉はとても立派になった。ジャイアンもスネ夫も、みんな自分で自分の人生を歩いている。

……それに比べて、僕はどうだろう。惰性に流され、ただ生きてるだけじゃないか。

 

 

こんな中途半端な僕と結婚しても、しずかちゃんはきっと幸せになれない。

……最近じゃ、こんなことまで考えている。

「……どこまでも、本当にダメな奴だな。僕は……これじゃキミも、愛想を尽かせるはずだな……」

気が付けば、失笑と共に、そんな言葉を呟いていた。

のび太!もっと頑張れ!

――その時だった。

――カランッ

突然、玄関の郵便受けに、何かが投げ込まれる音が聞こえた。

「……ん?こんな時間に郵便?」

時間は夜遅い。普通なら、郵便なんて届く時間じゃない。不思議に思いながらも、玄関の郵便受けを開けてみた。

そこには、便箋が一通。宛名も、消印もない。

 

 

どうするか悩んだが、中を開けてみた。

そこには、一枚の手紙が入っていて、その手紙を手に取り、読んでみた。

 

 

 

 

―――――――――――――――――――――――――

のび太くんへ

今キミは、何かに悩んでいると思う。

のび太くん。キミは、きっと勘違いをしてるよ。

全部うまくいく人生なんてないんだ。

誰でも躓いて、悩んでいるんだ。

キミの周りにも、輝いている人がいるだろう?

その人達も、キミが知らないだけで、頑張ってるんだよ。

だから、頑張って、のび太くん。

キミは確かにドジだけど、キミにしかないいいところもたくさんあるんだ。

辛く苦しいかもしれないけど、とにかく、今自分に出来ることを一生懸命頑張ってね。

そうすれば、きっと道が開けるさ。

 

 

もう一度言うね。

頑張って、のび太くん。

僕はいつでも、キミを応援してるよ。

――――――――――――――――――――――――
「―――こ、これは……この字は……!!」

目を疑った。信じられなかった。

――でも、見間違いようもなかった。

「この字は………ドラえもんの字だ……!!!」

ドラえもおおおおおおおおおおん

ドラえもん…(泣)

涙が溢れてきた

「ま、まさか……!!」

慌てて、裸足のまま外へと駆け出した。そして、アパートの周辺を走り回った。

「ドラえもん!!どらえもん!!!」

ずっと、名前を呼び続けた。

 

 

 

……でも、声が返ることはなかった。

しばらく探し回った後、一度家に帰る。そして、もう一度手紙を見てみた。

よく見れば、手紙はまだ新しい。まるで、つい最近書かれたかのようだった。

(どこかにいるんだ……ドラえもんが、どこかにいるんだ!!)

でもそれなら、どうして姿を見せないのだろう。何か理由でもあるのだろうか……

……考えても分からない。分からない―――けど……

(……ドラえもんが、僕を見ている。――応援してくれてる!!)

――僕の中で、何かが芽生えた。それまで消えてしまっていた、何かとても大きなものが、確かに僕の心に溢れていた。

「――野比!!この書類だが―――!!」

「――はい!!すぐ訂正します!!どこを直せばいいですか!?」

「お、おう……ええと……こ、ここをだな……」

 

「そこですね!?分かりました!!すぐ訂正します!!」

「あ、ああ……」

デスクに向かうと、すぐにパソコンのキーボードを叩き始める。カタカタと、キーを叩く音が軽快に、断続的に流れていた。

――ふと、机の隅に置いた便箋に目をやる。

「………」

(……ドラえもん。僕、頑張るよ……!!)

そして、画面に視線を戻した。

「――のび太くん……今日はどうしたの?」

休憩時間にジュースを飲んでいると、咲子さんが聞いてきた。

「え?何が?」

「いやだって……なんか、いつもと全然違うし……」

「そうかなぁ……」

「うん!全然違う!なんかこう……生き生きしてる感じがする!」

「……まあ、がっかりさせないようにしないといけないしね」

「なんのこと?」

「……なんでもないよ。でも、そんなに変かな?」

 

「う、うんうん!全然変じゃない!むしろ―――!!」

そう言うと、咲子さんは固まってしまった。

なんか、目をパチクリさせてる。

「……?どうしたの?」

「な、なんでもない!!なんでもないから!!」

「え?でも、顔赤いよ?」

「~~~ッ!!な、なんでもないの!!」

そして咲子さんは、そのままどこかへと走り去って行った……

「……なんなんだ?いったい……」

咲子さん。。。のび太鈍感すぐる

寝られなくなっちまった

仕事帰り、いつもの帰宅コースを大きく外れ、僕はいろんなところを通りながら歩いていた。

 

 

理由はもちろん、彼を探すためだ。

(……やっぱりいない、か……)

キョロキョロと付近を見渡しながら歩く姿は、もしかしたら不審者のように見えるかもしれないな。

やはり、何か姿を見せることが出来ない理由があるのだろうか……

気にはなったが、いくら考えても答えなんて出るはずもなかった。

それでもしばらく探し回って、家に帰った。

帰りつくと、家の郵便受けには、また、一通の便箋があった。

「―――!!ドラえもん!?」

慌てて家の中に家の中に駆け込み、鞄を放り投げて、立ったまま手紙を開く。

 

 

 

 

――――――――――――――――――――――

のび太くんへ

今日はどうだった?久々に充実しなかった?

それが、生きるってことなんだよ。

疲れたかもしれないけど、毎日を一生懸命過ごせば、毎日が輝くんだよ

 

確かに、一生懸命頑張っても、叶わないこともある。

だけど、その途中で経験したことは、必ずキミの大きな財産になるんだ。

僕は、キミのことを手伝うことは出来ない。

だから、キミがやらなくちゃいけない。

そして何かあれば、責任も取らなくちゃいけない。

だけど、頑張っていれば、きっと誰かが助けてくれるから。

キミの頑張りを、きっと誰かが見てくれているから。

そこに、大きな意味があるんだよ。

頑張れ!のび太くん!

僕にはそれしか言えないけど、頑張れ!のび太くん!

頑張れ!
―――――――――――――――――――――

「……ドラ……えもん………ドラえもん……!」

――涙が、溢れて来た。

 

 

 

ドラえもんの言う通りだった。今日一日は、とても充実していた。

 

どうしようもなくて、毎日がつまらなくて、いつも周りに流されていた。

そんな僕を、彼は助けてくれた。

姿はなくても、声は聴けなくても、彼は、僕に手を差し出してくれた。

……それがとても嬉しくて、とても暖かくて、僕は、その場で何度も何度も手紙を読み返した。

気が付けば、手紙の文字は滲んでいた。だけど彼の言葉は、間違いなく僕の心に刻み込まれていた。

それから、定期的に手紙が届くようになった。

届くスパンには差があったが、いつも気が付いたら郵便受けに入っていた。

手紙は、いつも新しかった。

書き溜めをしていたとも思えない。

つまりドラえもんは、この時代に、僕の近くにいる。

ジャイアンとスネ夫にこのことを話すと、その次の休日に、三人で街中を探し回った。

 

 

……でも、やっぱりドラえもんの痕跡一つなかった。

誰かが、ドラえもんの代わりに手紙を書いてるのかもしれないとも思った。

でも、何度見ても、その字はドラえもんのものだった。

「――じゃあ、その昔の友達から10年ぶりに手紙が来たのが、最近ののび太くんの変わり様の原因ってことか……」

街角のカフェで、コーヒーを飲みながら咲子さんは呟く。

今日僕達は、職場の備品を買いに来ている。前のしずかちゃん達と同じ状況だが……正直、大した買い物じゃない。仕事の途中で買うことも出来るレベルだった。

しかしまあ、咲子さんの強い要望(ほぼ強制)により、なぜだかこうして、休日に買いに来ていた。

そして、突然彼女は切り出してきた。

最近、何があったのか――

なんとか誤魔化そうとしたが、彼女に圧倒された僕は、こうして、ことの顛末を説明したのだった。

 

 

「原因って……それと、友達って言うより、家族に近いよ」

「ふ~ん……。でもその人、優しいね。姿は見せなくても、そうやってのび太くんを見守ってるし」

「……うん。とっても、優しいんだよ……」

「――まるで、のび太くんみたいね」

「……え?」

「のび太くんみたいに、とっても優しい」

「い、いや、僕は……」

「謙遜しなくていいのよ。だって、私は覚えてるもん。この会社に、入った時のこと……」

現在までのルート
咲子END
しずかEND
→ジャイ子END

覚えてる?私達が入社してすぐ、研修があったでしょ?

あの時、私、ドジしちゃって、研修で使う資料を忘れてたんだよね。

 

……まあ、普通なら言わないといけなかったんだけどね。

私、怒られるのが怖くて、どうしようか悩んでたんだ。

そしたら、のび太くんが私に話しかけてきたじゃない。

『――もしかして、忘れちゃったの?』

『――え?』

『資料』

『……う、うん……きっと怒られるよね……』

『……』

のび太くん、何か考えてたよね。そして、言ったんだ。

『……もしかしたら、探せば見つかるかもしれないよ?』

『え?で、でも……バッグに入れた記憶がないし……』

『忘れてるだけかもよ?いいから。一緒に探してみようよ』

そう言って、一緒に探してくれた。そして……

 

 

 

『――あったよ!花賀さん!』

『え!?嘘!!』

『ほら、これ』

『バッグに……でも、さっきは確かになかったし……』

『慌ててたんでしょ。でも、これで安心だね』

『……うん!ありがとう!』

それから、私は研修を受けたんだけど……

『――野比!!資料を忘れるとはどういうつもりだ!』

『す、すみません……!!』

(あれ?あの人、資料忘れてたんだ……もう、私のことより自分のことを――)

そして、気付いたんだ。もしかしたらって思って、資料をめくってみたら……あった。一番最後のページに、“野比のび太”って名前が……

 

 

すぐに言い出そうとしたけど、のび太くん、私の方を見て首を振ったよね。私、言い出せなかった。あの時は、本当にごめん……

そのあと、のび太くんに謝りに行ったら、のび太くん、笑いながら言ったよね――
『いいんだよ。僕、怒られるのは慣れてるし』――

のび太。いい奴だな(泣)

「……そんなことあったかなぁ……」

「あったよ。私、今でもはっきり覚えてる。でもね、やっぱり悪いと思って、そのあと上司に言ったんだよ。資料を忘れたのは私で、のび太くんは私に資料を貸したんだって。」

「そうなの?」

「うん。こっぴどく叱られちゃった。……でも、上司が言ったんだ。ここでこのことを公にいたら、野比の男気に水を差してしまうな。って。そのあと上司の人、いろんなお偉いさんに言って回ったみたい。
――野比は、素晴らしい奴だって。それがいいことかどうかは別にして、彼自身は、とても優しくて、我が社には必要な人材だって」

「……」

なんか、物凄く恥ずかしい……

「――そのことがあったから、私、決めたんだ。もうのび太くんに迷惑をかけないようにしようって。私が何かミスをしたら、のび太くん、またそういうことしそうだし。
……だから、今の私があるのは、全部のび太くんのおかげなんだよ……」

 

 

 

「咲子さん……」

「決めたって……何を?」

「のび太くん」

「のび太くんは、きっと、誰かを幸せに出来る人なんだよ。仕事か苦手でも、それは、のび太くんにしかない、とても素晴らしいことなんだよ」

「……そ、そうかな……」

「うん!そうそう!……だから、私、言うね?」

「……ん?」

「ちゃんと聞いててよ?分かった?」

「う、うん……」

そう言うと、咲子さんは、一度大きく深呼吸をした。

そして、晴れ渡る青空を瞳に写した後、何かを決意したかのように、僕を見た。

――とても強くて、とても綺麗な瞳だった。

「……のび太くん。私は……あなたが、大好きです。
――付き合って、下さい……」

「…………へ?」

 

 

『――すぐに答えなくてもいいから。のび太くんが優柔不断なのは知ってるし。
でも、ちゃんと答えてね。私、待ってるから……

家に帰った後、寝転んで天井を見ながら、咲子さんの言葉を思い出していた。

……僕は、知っている。

想いを口にすることが、どれだけ勇気がいることなのか。ほんの少しの言葉が、どれだけ遠いことなのかを。
それを、彼女は口にした。

拒絶されるかもしれない。傷つくかもしれない。そんな不安が、たぶん彼女の中にあったのかもしれない。

それでも、彼女は言葉を口にした。僕には出来なかったことを、彼女はしたんだ。

それが羨ましくて、自分が情けなく思った。

彼女の方が、僕なんかより何倍も凄い。凄いんだと……

そもそも、僕は本当にしずかちゃんと結婚したいのだろうか。

子供の時の気持ちを、ただだらだらと持ち続けているだけじゃないだろうか。

 

 

だって僕は、足を踏み出そうとしていない。したこともない。

惰性に流され、その関係を維持しようとしていただけだった。

(……なんか、分からなくなってきたな……)

その時、まるでタイミングを見計らったかのように、郵便受けから音が響いた。

(……ドラえもん?)

手紙きたーーーーーーーーーーーーーーー

――――――――――――――――――――――

のび太くんへ

キミは、色んな人と出会ってると思う。

その中で、自分のことが分からなくなったり、どうするべきか悩んだりすると思う。

だけどのび太くん。

そんな時は、思い切り悩んでいいんだよ。

キミの人生は、キミだけのものだ。

思い切り悩んで、それでも決めたことに、僕は何も言わないよ。

だって、きっとのび太くんなら、いい方向に決められるって信じてるから。

 

でもね、のび太くん。

絶対に、逃げちゃだめだよ。

逃げた先には、たぶん後悔しか残らないんだよ。

何かのせいにしたり、自分を恨んだりしちゃうかもしれないんだ。

のび太くんには、そんな思いはしてほしくないな。

だから、いっぱい悩みなよ。

悩んで悩んで、悩み抜いて、キミだけの答えを見つけてね。

キミの未来は、キミが作るんだから。

――――――――――――――――――――――――――
(……まいったな。全部、お見通しってわけなんだね……)

それでも、少し楽になった気がする。

(僕の未来は、僕が作る……か……)

ドラえもんの手紙を思い出しながら、静かに部屋の電気を消す。

暗くなった部屋には、外からの月の光が射し込んでいた。

 

太陽よりも弱いけど、とても優しい光だった――

「――おっはよー!」

「お、おはよう……」

「もうのび太くん!朝から元気ないぞ?朝の挨拶は大切だからね!
――じゃあ、今日も1日頑張ろー!!」

咲子さんは、いつもに増して元気いっぱいだった。とてつもなく、上機嫌だった。

彼女に圧倒されていると、彼女を見た男性社員の話し声が聞こえてきた。

「なんか、すげえ上機嫌だよな」

「うん。なんというか、電池を新しく入れ換えたような……」

「ていうか、花賀、前にも増して可愛くなってないか?」

「男でも出来たんじゃねえの?」

「マジで!?俺、狙ってたのに……」

「俺もだよ!その男、どんな奴なんだろうな……」

「見つけたら、血祭りだな……」

……あのことは、誰にも相談しないでおこうと、固く心に誓った。

花賀さんのために祭りの射撃で無双してる姿が思い浮かんだ

 

 

「――夏だあああああ!!!」

「――海だあああああ!!!」

「……暑いんだぁぁ…………」

ズルッ

「――もう!なんだよのび太!ノリが悪いぞ!」

「そうだぞのび太!ジャイアンの言うとおり!」

「久々の海なんだよ……日射しって、こんなに痛かったっけ……」

この日、僕はジャイアンとスネ夫と、海に来ていた。

発案者は、もちろんジャイアンだ。

なんでも、仕事はそれなりにストレスが溜まるとかなんとか。で、僕達が誘われたわけだ。

「夏は暑いの!これでいいの!」

「よっジャイアンっ!夏男っ!」

「……ほんと元気だね、二人とも……」

この二人が、ここまで元気がいいのには、理由がある。

 

 

それは……

「――よっしゃああ!!スネ夫!!行くぜぇ!!

「おう!」

「「目指すは、ビーチのお姉さんっ!!!」」

二人は、僕を置き去りにして走っていった……

「……まったく、もう……」

「――お姉ぃっさぁあん!!暇ぁあ!?」

「あ、忙しいので」キッパリ

「あ……はい……」

(また撃沈か……)

これで、ジャイアンとスネ夫は、本日5敗目。いい加減諦めればいいのに。

「ねえねえジャイアン、スネ夫。もういいだろ?3人で遊ぼうよ」

「何が楽しくて、男だけで楽しまなきゃいけないんだよ!!」

「そうだぞのび太!男だけのグループなんて、周りをも不幸にするんだぞ!?」

「だ、だったら、誰か連れてくればよかったのに……」

 

「それじゃ面白くない!!」

「えええ……」

「いいから、のび太も誰か探してこいよ!」

「ええ!?ぼ、僕が!?」

「当たり前だろ!ほら、頑張ってこい!」

「……そりゃないよぉ……」

とぼとぼと、浜辺を歩く。

照り付ける太陽は、容赦なく僕の気持ちを畳み掛けてくるかのようだった。

(……まあ、適当に時間潰して、戻ればいっか……)

そもそも、僕にナンパを求めるのは無理がありすぎる。無茶ブリもいいとこだ。

成果を期待するなど――

「――ああ、そこの青年!」

 

「……?僕?」

「そうそう!そこのキミだよ!」

なんか、知らない女の人に話しかけられた。浜辺で寝そべってるけど……焼いてるのかも。

「な、なんですか?」

「いやね、ちょっとあの水着を取ってくれないか?」

「あれって……あそこにある水着?」

「そうそう。いやぁ、背中を焼いてたら風で飛ばされてねぇ。ちょうど大人しそうなキミを見つけて助けてもらおうって思ったわけだよ」

確かに……よく見れば、うつ伏せだけど、上半身裸だ。

……ちょっとドキドキしてしまう。

しかしまあ、困ってるなら助けないとな。

「……はい、これ」

「おお!すまんすまん!助かったよ青年!」

「気をつけて下さいよ?」

「いやいや、面目ない」

女の人は、すぐに水着をつけ立ち上がる。

 

 

……そして、僕は固まってしまった。

(お、おぅ……ダイナマイト……)

すっごい、美人がそこにいた。

「助かったよ青年。――私は、舞。良ければ、名前を教えてくれないか?」

なんだよ舞ってだれwww

舞が男で再生されていたw

「――へぇ、友達と来てたんだ」

「うん」

「それで、成り行きでナンパをすることになったと……」

「そうそう」

「ハハハ……!!若いねぇ!」

「舞さんだって、大して年変わらないでしょ?」

 

「まあ、そうなんだけどね」

「ところで、舞さんは一人で海に?」

「ハハハ!私をナンパするつもりかい?」

「そ、そんなつもりじゃ……」

「冗談だよ、冗談。ちょっと、知り合いとね」

「彼氏さん?」

「そうだよ。……っていいたいところだけど、そうじゃないんだよね~」

「はぁ……」

すると舞さんは、何かを思い付いたようだ。

そして、ニヤリと笑みを浮かべた。

「――そうだ。なあのび太。お礼を兼ねて、キミに協力してやろう」

「へ?協力って……」

「いいからいいから!私に任せなさい!カッカッカッ……!」

……果てしなく不安だ。

「――ジャ、ジャイアン……ただいま……」

「――!やっと帰ってきたか!遅いぞのび――」

振り返った瞬間、ジャイアンは固まった。

 

「うん?どうしたのさジャイアン。何をそんなに――」

つられて振り返ったスネ夫もまた、フリーズする。

二人の視線は、1点に集中していた。そのさきにいるのは、もちろん――

「――お?キミ達が、のび太の友人だね?」

「……」

二人とも、微動だにしない。まあ、それもしょうがないだろう。二人の様子からして、おそらくさらに連敗記録を更新したたろうし、そんな中、僕がまさか女の人を連れてくるとは思わなかっただろう。

目を点にしながらも、ジャイアンはようやく声を絞り出した。

「……の、のび太くん……その女の人は……?」

「ええっと……この人は……」

「――私ぃ、のび太にナンパされたんだぁ」

「の、のび太が――ッ!?」

「ナ、ナンパ――ッ!?」

「……ちょっと、舞さん?」

この人は……何を言ってるのだろうか……

舞さんは僕の言葉を無視し、長い髪を指にくるくる巻き付かせながら、猫なで声を続ける。

「だってのび太ったらぁ、あんなに情熱的に詰め寄るんだも~ん。私ぃ、凄くドキドキしちゃったぁ」

 

 

「じょ、情熱的――ッ!?」

「つ、詰め寄る――ッ!?」

「舞さん。一度こっちに……」

「ああん!のび太ったらぁ!乱暴!」

とりあえず、一時中断しよう。ていうか、いつまでそんな声出してるんですか。

ジャイアン達に背を向け、こそこそと話す。

「ちょっと舞さん!どういうつもりなんですか!」ヒソヒソ…

「くくく……!見てよの顔!ポカーンってしてるよ!」ヒソヒソ…

「あれは引いてる顔です。やり過ぎですって!」ヒソヒソ…

「そんなことないと思うけどなぁ……」ヒソヒソ…

「とりあえず、軌道修正して下さい!」ヒソヒソ…

「もう……分かったよ……」ヒソヒソ……

密談を終えた僕達は、再びジャイアン達の方を見る。

そして、舞さんは口を開いた。

「……もう……のび太ったら、Sなんだからぁ……私にあれこれ指示してぇ……」

「あ、あれこれ――ッ!?」

「指示――ッ!?」

「ちょっとおおおお!?」

……これは、お礼なのだろうか……

 

「……のび太……やっぱりお前も、男だったんだなぁ……」

ジャイアンは、感慨深そうに呟いた。片やスネ夫は、呟くことすら出来ず、凍りついたままだった。

「……ちょっと舞さん、これ、どうするつもりなんですか……」

「う~ん……まさか、こんなに純情くんとは思わなかったなあ……」

舞さんは困ったように頬を指でかく。

しかしまあ、一番困ってるのは、僕だったりするんですが……

「――ああ!こんなところに!……課長!探しましたよ!

「うん?……あちゃー。見つかったか……」

突然、背後から声が聞こえた。そして振り返った舞さんは、残念そうに舌を出す。

(課長って……もしかして、舞さんのこと……)

後ろを振り返ると、今度は、僕が固まった。

 

「――ッ!!」

「え――ッ!?」

「……ん?二人とも、どうしたの?」

固まった僕と、同じく固まったその人を見て、舞さんは不思議そうに顔を交互に見る。

だが僕は、それどころではない。何しろその人は――

「……し、しずかちゃん……!?」

「……の、のび太さん……?」

――まさかの、再会だった。

「――いやいや、さすがに驚いたね……。まさか、のび太としずかが知り合いとはね……」

海の家に移動した後、舞さんは中ジョッキのビールをグビグビ飲みながらそう話す。

「本当っすねぇ。世間って本当に狭いもんすね」

「ほんとほんと」

それに続き、ジャイアンとスネ夫も言葉を漏らす。

「……それにしても、あの二人は、なんで黙りこんでるんだ?」

舞さんの言葉に、ジャイアンとスネ夫はこちらを向いた。

「……」

僕としずかちゃんは、隣同士に座ったまま、顔を隠すように俯いていた。

 

 

何か話さなきゃとは思う。だけど、言葉が出ない。それはしずかちゃんも同じようで、楽しそうに話す舞さん達とは違い、重苦しい空気が、僕としずかちゃんを包んでいた。

そんな僕らを見たジャイアンは、舞さんに耳打ちをする。

「……まあ、色々あるんすよ……」

「ふ~ん……」

「……ねぇねぇのび太ぁ」

「は、はい?」

いきなり、舞さんが這いながら近づいてきた。そしてなぜかまた猫なで声。

「あ、あの……舞、さん?」

「……」

「ねぇねぇ、二人でどっか行こうよぉ」

「ちょっと舞さん、何言って……」

「いいからさぁ。ねぇねぇ」

「ちょっと舞さん――!!」

しずか「――ッ!!」

突然、しずかちゃんは席を立った。急な出来事に、僕らはただしずかちゃんを見つめる。視線が集まるなか、しずかちゃんは、そのまま海の家を出ていった。

(な、なんなの……)

 

 

呆然としていると、舞さんは突然肩を叩いてきた。

振り返れば、僕を見つめる舞の目。その目は、とても優しいものだった。

「……行ってやれ、のび太。お膳立ては、してやったからな」

「……え?」

「いいから。――お前も、男なんだろ?」

舞さんは、変わらない瞳で僕を見ている。これに、応えなきゃいけない。

そう、思った。

「――はい……!」

そして僕も席を立ち、海の家を飛び出す。そのまま砂浜を駆け出した。

遠くに見える、あの背中を追って――

「――し、しずかちゃん!待ってよ!しずかちゃん!」

「……」

僕の呼び掛けに、彼女はようやく足を止める。いつの間にか海水浴場からは離れてしまい、 人の姿なんてなくて、波の音、カモメの声、小さく聞こえる人々の喧騒だけが響いていた。

 

 

 

「……し、しずかちゃん……」

「……なに?」

「どうしたの、いきなり飛び出して……」

「……のび太さんの……バカ……」

「……え?」

「……何でもないわよ……」

「う、うん……」

……たった数言、そう話しただけで、僕達はまたも黙りこんでしまった。

そのまま立ち尽くして僕らだったが、少し時間が経ったころに、ようやく波止場に移動することになった。

二人並んで座り、海を見る。

波は白い轍を作り、外から内へとさざ波の音と共に近付いてくる。陽射しは強いが、海風が吹いてるからか、そこまで暑さは感じない。その風に運ばれてくる潮の香りは、なんとも言えない心地よさを演出する。

 

 

「……海、綺麗だね」

「……ええ。そうね」

ようやく出たその言葉に、しずかちゃんは静かに言葉を返す。

少しだけ、昔に戻った気分だった。

あの頃の僕らは、こうして二人並び、色々なことをした。絵本の中に入ったり、過去や未来に行ったり……時には危険なこともあったけど、最後には必ず笑いあっていた。

――未来から来た、彼と共に……

彼のことを思い出すと、閉ざされていた僕の口は開き、自然と言葉が出た。

「……ねえ、最近どう?仕事忙しい?」

「……うん。やっぱり忙しいわね」

「大変だね。でも、今日は休みとれたんだ」

「取れたって言うのかな……課長がね、言ったの。働くことも仕事なら、休むこともまた仕事だって。それでもなかなか休めなくていたら、この通り。無理やり連れてこられちゃった」

「ハハハ……」

……舞さん、やっぱ課長なんだ……全然見えない……

「ほんと、課長には感謝してるわ。いつも私をサポートしてくれるし、優しいし……」

 

 

そう話すしずかちゃんは、とても生き生きとしていた。本当に、今の仕事が好きなのだろう。

そこで僕は、とても気になることを口にした。

「……出来杉は?」

「え?」

「出来杉は……一緒に仕事してるわ。彼ね、今度のプロジェクトのリーダーになったのよ。とても、張り切ってるわ」

「……そう、なんだ……」

……出来杉は、やっぱり凄かった。

二人が働くのは大手企業。その、プロジェクトリーダーなんて、なかなかなれるものではない。しかも、あの若さで……

出来杉は、僕なんかとは全然違う。

そのことが、酷く惨めに思えていた……

「――さて、そろそろ帰らなきゃ」

彼女は、その場を立ち上がる。そして、一度大きく体を伸ばした。

 

 

「え?もう帰るの?」

彼女は、困ったような笑みを浮かべる。

「……うん。仕事が残ってるの」

「今日くらいは、ゆっくりしたら?」

「そうなんだけどね……」

「ストレスだって、溜まってると思うよ?無理しなくても……」

「大丈夫よ、のび太さん。確かに、ちょっと疲れてはいるけど」

「だったら――」

「――でも、気分はいいの。とっても……」

そう話すと、彼女は遠くの海を眺めた。まるで海風に全身で触れるように目を閉じる。

とても、穏やかな顔で……

その顔を見たら、それ以上のことを言えなくなってしまった。

 

 

だから僕も、同じように海を見た。

遠くに見える入道雲が、ふわふわと風になびかれ形を変える。

「――のび太さん、あの雲、笑ってるみたい……」

「え――?……あ、ホントだ……」

大きな白い雲は、僕らを見守るように、空から優しく微笑みかけていた。

それから、しずかちゃんと舞さんは帰っていった。

『感謝するよ、のび太。おかげで、しずかはリフレッシュ出来たみたいだ』

最後に、舞さんはそう言った。

でも、正直僕は何もしていない。話だって少ししか出来なかったし。

それで持ち直したのなら、それはきっと、しずかちゃん本人の力なんだと思う。

ちなみに、ジャイアンとスネ夫は、完全に酔いつぶれていた。

何でも、酒に酔わせて舞さんの連絡先を聞こうとしたらしいが、逆に潰されたとか。

確か、ジャイアンはかなり酒が強い。

それをも上回る酒豪とは……舞さん、恐るべし。

 

二人が酔いつぶれていたこともあり、その日僕らは帰らず、近くの民宿に一泊した。

その日の夜、二人は地獄を見ていたが。

酒は、ほどほどに。

民宿を出るころには、ジャイアン達もようやくなんとか回復していた。少しまだフラフラしてるけど、夜よりは何倍もましのようだ。

しかしながら、人生とは難しいものだ。

地獄を見ていた二人を介抱したのが僕。だが家に帰ってから、今度は僕に地獄が訪れていた。

「……あぅぅ……し、死ぬ……」

帰宅した僕は、なんとなく体の怠さを感じ、その日は早く寝た。次の日が仕事でもあったし、体調管理に万全を期すことこそ、一人前の企業戦士だからだ。

……だが、翌朝、あまりの気怠さに目を冷まし、水銀の温度計を使用したところ、なんと数値は39度オーバーを叩き出していた。

どうやら、相当疲れていたようだ。

仕方なく会社に連絡を入れ、その日は休むこととした。

 

 

本日の企業戦士は、しばしの休息となった。

――ピンポーン

寝ていた僕は、玄関から鳴り響くチャイムの音に目を覚ます。

時刻は夕方。

こんな時間に来るのは、大抵新聞の勧誘であることを、僕は知っている。

フラフラとしながら玄関に向かい、ガチャリとドアを開けた。

「――新聞ならいりませんよ」

「……新聞?なんのこと?」

「…………へ?」

目の前にいた人物は、キョトンとしていた。まあいきなり新聞の勧誘と間違えられたわけだし、無理もないわけで……

――いやいや。そうじゃなくて、その前に……

「さ、咲子さん?なんでここに……」

 

僕の問いにニッコリと笑みを浮かべた咲子さんは、手に持っていた膨らんだスーパーのビニール袋見せる。
そして……

「――晩ごはん、作りに来たの。……おじゃま、してもいい?」

「――少し散らかってるけど、気にしないで」

「おかまいなく。……うわぁ。ここが男の人の部屋かぁ……」

「あ、あんまりじろじろみないで欲しいかも……」

「んん?じろじろ見られたくないものでもあるの?」

咲子さんは、意地悪な笑みを浮かべていた。僕はそれに失笑を返す。

 

 

来たことに驚いたが、さすがに追い返すのは可哀想と思い、彼女を部屋に招き入れた。

実のところ、女の人を家に入れるのは、彼女が初めてだ。しずかちゃんも入れたことない。

少しだけ片付けをしたあと、僕は布団に戻る。彼女はそんな僕の横にちょこんと座り、引き続き部屋の中をきょろきょろと見渡していた。

その目は、好奇心旺盛な子供のようだった。

「……よくここが分かったね」

「うん。上司に聞いたの」

「……教えてくれたんだ」

……上司よ。個人情報とはなんぞや。

「……じゃあさっそく、キッチン借りるね。のび太くんは寝てて」

「あ、うん……」

そう言うと、咲子さんは持ってきていた花柄の赤いエプロンを身に付けた。

そして、軽快なリズムで、包丁の音を響かせ始めた。

「……」

不思議な光景だった。

僕は、料理をする彼女の背中を眺めていた。

前までは、こうして見る女性の姿は、しずかちゃんしかいないと思っていた。

 

 

……でも、今僕の目の前にいるのは、彼女ではない。

それが何だかとても不思議なことで、咲子さんの後ろ姿を、ただぼーっと見ていた。

すると、急に咲子さんは後ろを振り返る。そして、僕が見ているのに気付いた瞬間に視線を前に戻した。それから、ちょくちょく後ろを振り返りはじめた。

「……?どうかした?」

すると、彼女は照れるように顔を背けながら、呟く。

「……そんなに見られたら、少しだけ、恥ずかしいかも……」

「あ――、ご、ごめん……!!」

慌てて布団を被ろうとした。でも――

「――あ、待って!」

「え?」
「……やっぱり、見てていいよ……」

「う、うん……」

……なんなの、いったい。

「――どう?おいしい?」

咲子さんは、作った料理を持つ僕に、キラキラした視線を送りながら聞いてきた。

 

彼女が作ったのは、野菜がたくさん入った雑炊。

美味しそうだ。確かに美味しそうだ。

だが……

「……いや、感想聞かれても、まだ食べてないから……」

「え?――あ、そうだったね。ごめん、つい……
「いいさ。今から食べるから。――いただきます……」

とりあえず、一口ぱくり。

「……」

(……あれ?)

ちょっと待ってほしい。

雑炊ってのは、確か出汁とか醤油とかが入って、懐かしい味のする日本食のはず……

だが目の前にあるモノは、なぜか洋風テイスト。醤油も出汁も感じない、ネイティブな味が口に広がる。初めて口にするような味だ。

だが一番不思議なのは、それだけ本家雑炊からかけ離れているはずなのに……

「……お、おいしい……」

「ほ、ほんと?」

「う、うん。とてもおいしいよ……」

なぜだか分からないけど……

「いっぱいあるからね。たくさん食べて、早く治さないと」

 

「う、うん……」

その味は、なぜだか食欲を刺激した。

そして僕は、気が付けば、3杯もおかわりをするのだった。

たらふく雑炊(?)を食べた後、咲子さんは洗い物をする。それだけではなく、掃除、洗濯をして、仕事に来ていくスーツにアイロンまでかけてくれた。

まさに主婦。今すぐにでもお嫁に行けるだろう。

「――今日はありがとう、咲子さん」

「ううん、いいの。私が好きでしてるだけだし」

「……え?」

「え?――あ!違う違う!今のはそういう意味じゃなくて!」

「ええっと……」

「――あ!違うんじゃなくて!好きなのは本当だけど!今のはそういう意味で言ったんじゃなくて――!!」

 

彼女は、顔を真っ赤にしながら、顔を隠すように必死に手を振っていた。

その姿は、なんだかとても愛らしく思えた。

自然と僕は、お腹を抱えて笑っていた。

笑う僕の姿を見た咲子さんは、顔を膨らませ顔を伏せてしまった。

――ふと、咲子さんはあるものに気付いた。

「……これって……アルバム?」

それは、僕の小・中学の時の、みんなで撮った写真達だった。

「……これ、見ていい?」

「……うん。いいよ」

僕がそう言うと、咲子さんはアルバムをめくり始めた。彼女が見る傍らで、僕もアルバムを覗き込む。

 

写真の中の僕らは、あの頃のまま時間が止まっていた。

あの頃、彼が取り出す不思議な道具により彩られた、夢のような毎日……でも、彼の写真は1枚も残っていない。不自然に抜き取られたアルバムのポケットが、ところどころ散見された。

その何もないポケットを見るたびに、思い知らされる気分になる。

彼が、僕の隣にいないことを……

「――これ……」

感傷に耽っていると、咲子さんが言葉を漏らした。

彼女の見つめる先には、小学生の時の写真が。それは、みんなで白亜期に行き、キャンプをした時の写真だった。

 

その中で、僕はあの子の隣に立っていた。

「……これ、あの時の……」

「……うん。しずかちゃん……」

「……」

そのまま、彼女は口を閉ざした。

「……やっぱり、幼馴染み……なんだね……」

ようやく彼女が口にしたその言葉は、とても寂しそうだった。

そしてそのまま、彼女は続ける。

「……ずるいなぁ、源さん……」

「……ずるい?」

「私には、のび太くんとの記憶は、会社に入社した時からしかないんだよね。
――だけど源さんは、のび太くんとの思い出が、こんなにたくさん残ってる。
……やっぱり、羨ましいな……」

「……」

「私ね、最近考えてるんだ。私とのび太くんは同じ地元なのに、なんでもっと早く会えなかったんだろうって。
もっと早く会っていれば、こんなに悩むこと、なかったかもしれないのに……」

「……咲子さん……」

部屋の中は、静まり返った。

台所の水道から漏れる水滴の音が、やけに大きく聞こえていた。

 

 

ポタリ……ポタリ……と。

「――私、そろそろ帰るね」

いきなり、咲子さんは立ち上がり、荷物をまとめ始めた。

「え?あ、うん……」

「……じゃあね。あ、寝てなきゃダメだよ?」

そう言い残し、逃げるように玄関に向かう彼女。

でもここで、僕は彼女が荷物を忘れていることに気付いた。

「――あ、咲子さん!これ――!」

その荷物を手に持ち、前屈みに立ち上がり彼女の方に向かう。

――すると、急に目の前が真っ暗になった。

激しい目眩に苛まれ、目の前が歪む。

(やばっ……そういえば、まだ熱が……)

フラフラと彼女の方に近付いていった。

「え――?」

彼女が僕に気付き振り返ると同時に、僕の意識は、そのまま暗闇の中に沈み始める。

 

 

体の力は抜け、彼女に覆い被さるように倒れ込んだ。

「あ――」

彼女の口から漏れた声だけが耳に入る。

それから先は、覚えていない。

……ただ最後に、彼女の腕に包み込まれたような……そんな、気がした。

「……うぅ……うぅん……」

気が付いた時には、朝の光が窓から射し込まれていた。

どうやら、そのまま眠ってしまったようだ。

体は軽い。熱も下がったようだ。

「……うん?」

その時、僕はようやく気が付いた。僕の腹部に顔を埋め、座ったまま眠る彼女の姿に――

彼女の横には、水が張った洗面器があった。そして僕ま枕の横には、少し濡れたタオルも落ちていた

 

それが意味することは、つまり……

(一晩中、看病してくれてたのか……)

無意識に、彼女の頭を撫でていた。

――その時だった。

ピンポーン……

玄関から、チャイムが鳴り響く。

こんな時間に誰だろうか――。そんなことを思いながら、彼女を起こさないように横にずらし、玄関に向かった。

「……どなたですか?」

玄関を開けた瞬間、僕は凍り付いた。

「……具合、どう?」

一瞬、目を疑った。でも、間違いない。

「――し、しずかちゃん!?」

「――ど、どうしてここに!?」

「……剛さんから、のび太さんが風邪引いたって聞いて。お見舞いに……」

 

 

「あ……ああ……そう、なんだ……」

(――これは……マズイ!!!)

寝起きでぼけっとしていた僕の脳は、即座に高速回転を始める。

僕の部屋には、咲子さんがいる。そして時刻は朝。誰が見ても、導き出される答えは同じだろう。

――即ち、御宿泊……

(――ま、マズイぞおおおおおお!!!)

しずかちゃんが僕の部屋を訪ねたのは、今日が初めてだった。だがしかし、なぜよりよって今日なのだろうか!
やましいことは何もない。何もない――が!いったい誰が信じると言うのだろうか……

「……ねえのび太さん。本当に大丈夫?」

しずかちゃんは、心配そうに僕の顔を覗き込む。おそらく、死にそうな顔をしているのだろう。

「え!?ああ、ああ!大丈夫大丈夫!すごく元気!」

ちょっと大げさに、ジェスチャーをしながら言ってみた。するとしずかちゃんは、ホッと胸を撫で下ろす。

「良かったぁ……ねえ、上がってもいい?」

(な、なんですとおおおおお!!??)

僕は、更なる窮地に立たされた。

「……だめ?」

「ダメって言うか……その……そう!凄く散らかってるし!風邪で寝てて、全然片付けてないんだ!!」

 

 

 

とりあえず、防衛線を張ってみた。

「もう、のび太さん。片付けないと、治るものも治らないわよ?
のび太さんは寝てていいわよ。私が片付けます」

(逆効果だったあああああ!!!)

こう来るとは!凄まじくマズイ!

ここまで言われたら、断る方が不自然かもしれない!

しかし……だがしかし!家に入れれるはずもない!

どうする……どうする……!!??

「――のび太くん、起きてたの?」

「な゛っ―――!!??」

突然、後ろから咲子さんの声が聞こえた。さらにあろうことか、玄関へと近付いてくる。

そして……

 

 

「あれ?誰か来てた……の……」

「……え?……あなたは……あの時の……」

……ついに……ご対面、しちゃいました……。

そしてその場で、僕達はもれなくフリーズする。

その時、僕の脳裏には、なぜか走馬灯が流れていた……

「……のび太さん?」

「は、はひっ――!」

「これ……どういうこと?」

しずかちゃんから放たれる圧倒的なオーラが、僕の心を叩き潰しにかかる。これまで、聞いたことがないくらいに怖い声。

凄まじく――どころではない。超ド級に怒ってるのが分かる。

……が、今の僕には、この状況を的確に説明できるような余裕などあるはずもなく……

「い、いや……これはというと……」

「ちゃんと説明、してくれるかしら?」

「ええと……その……」

……結果、しどろもどろとなり、余計に誤解を招いてしまったようだ。

そんな中、突然咲子さんが切り出した。

「――私は、風邪で倒れていたのび太くんを、看病していただけです」

「……え?」

「……へ?」

ポカーンとする僕達を他所に、咲子さんは続けた。

 

 

「ですから、私がここにいたのは、寝込んでいたのび太くんを看病していただけなんです。やましいことは、一切ありません」

「……」

……なんとまあ、意外なことに、咲子さんが助け船を出してくれた。

咲子脱落?

「……のび太さん?それ、ホントなの?」

「う、うん……実は――」

「――ホントです。嘘なんか言ってません」

あくまでも、咲子さんは毅然とした口調を続ける。

だが、しずかちゃんは、ここで顔をムッとさせた。

「……悪いけど、私は、のび太さんに聞いてるの」

「のび太くんに聞いても一緒ですよ。だってそうなんだし」

「……」

少しずつ、険悪な雰囲気が辺りを包み始めた。二人とも、凄く怖い。

 

「そもそも、私がここにいて、何がいけないんですか?」

「な、何がって……」

「あなたは、のび太くんの彼女でもないはずです。そんなあなたが、文句を言う資格なんてありません」
「ちょ、ちょっと咲子さん……!」

「――で、でも!私はのび太さんの幼馴染みで……!!」

「それがなんですか!?」

「――!」

「そんなの、ただの幼馴染みじゃないですか!」

「……あ、あなただって!ただの同僚じゃない!」

「……私は……私は、のび太くんが好きです!告白もしました!」

「え――!?」

「好きな人と一緒にいて――何が悪いんですか!?」

「……!」

「……」
さっきの言い合いから一転、双方にらみ合いの膠着状態が続く。

2つの視線はぶつかり合い、火花を散らすかの如、たただ相手を威嚇し続けていた………!!

 

 

 

(……って、他人事みたいに言ってる場合じゃないよな)

「……し、しずかちゃん?」

「………!!」
「あっ!しずかちゃん!」

僕が一声かけた瞬間、彼女は走って帰って行った。

この場合、どうすれば良かったんだろう――

自分の行動の選択肢すら思い浮かばなかった僕は、その場で立ち尽くす他なかった。

「……ごめん」

ふと、後ろからか細い咲子さんの声が聞こえた。見れば彼女は目を伏せ、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
……これも、僕のせいなのかもしれない。

彼女に、非があるわけがない。彼女はただ、僕の身を按じていただけなんだ。

「……会社、行こうか」

「え?」

「遅刻しちゃうよ?」

「のび太くん……」

……だから僕は、今自分に出来る精一杯の笑顔を彼女に見せた。

それから、僕らは仕事に行った。

ドラえもん、僕は、これからどうすればいいんだろう……

君がいれば、何か不思議な道具で何とかしてくれるんだけどね……

――ふと、そんなことを考えた。

でも、彼はいない。いないんだ。

だからこれは、僕が何とかしなきゃいけないんだ。

そうだよね?ドラえもん……

 

 

それから、季節は流れていった。

気が付けば、あれだけ猛威を振るっていた夏は終わりを迎え、秋が訪れた。

食欲の秋。芸術の秋。僕の場合、昼寝の秋。

会社では、夏の終盤にかけて怒涛の激務ラッシュが押し寄せ、目の回るような忙しさとなった。

おかげでジャイアンとスネ夫に連絡もろくに取れないし、それどころかおちおち昼寝も出来なかった。

……しずかちゃんとは、あれっきりだった。

何度か電話をしてみたが、いつもコール音だけが僕を待っていた。

たぶん、嫌われてしまったのかもしれない。それも無理もない話だと思うが。

あの一件は、ジャイアンに相談してみたりもした。

ジャイアンからは怒られたが、それでも、僕に悪気がなかったことは分かってくれていた。

 

 

『一度謝り入れとけよ―――』

そう言われたが、電話にも出ない状態だと、いきなり家に行くのもマズイだろうから、結局謝ることは出来ていなかった。

今頃しずかちゃんは、何をしてるのだろうか……

出木杉と、仲良くしてるのだろうか……

不安に感じる夜が多くなった。

――そんな僕の支えは、ドラえもんからの手紙だった。

ドラえもんの手紙は、それからも定期的に届いていた。

相変わらず真新しい手紙が家に届いて来る。

夜中届いたり、家に帰ると届いてたり。

届く時間はまちまちだった。

そして不思議なことに、誰もドラえもんの姿を見ていないようだ。

あれだけ目立つ青いタヌ……もとい、青いロボットなら、誰かが見ててもいいと思うんだが……

いい加減出てきてもいい頃だと思うが、このまま手紙をくれるなら、いつかは会えるかもしれないと思っている。

 

 

こうして手紙が届くと言うことは、彼はどこかにいるということ。

焦ることはないだろう。

――そう言えば、あれから、少しだけ変わったことがある。

「――のび太くん!お待たせ!」

「ああ、咲子さん……」

咲子さんは笑顔で駆け寄って来る。とてもおめかししてる。今日は、彼女と食事に行くことになっていた。

変わったことというのが、僕と咲子さんが出かける回数が増えたことだ。

仕事帰りにご飯を食べたり、休みの日に買い物に行ったり……

ちなみに、あの日の答えはまだ出せていない。

でも、咲子さんは一度も催促をしてこない。ただ、僕を待っている。

僕は、そんな彼女に甘えているのかもしれない。

頭ではそんなことはダメだというのは分かっている。早く決めないといけないってのは分かってる。

……だけど……

「――のび太くん?のび太くん?」

「……え?」

「はぁ……またボーっとしてたのね……」

 

 

「ええと……えへへへ……」

「笑って誤魔化さない!……まったくもう……」

口では怒っていても、咲子さんはどこか楽しそうだ。

――今の関係が続けばいい

僕は、そんなことを考えている。とても卑怯な考えだろうな。……最低だな、僕は……

その日の商店街は、人の波がうねっていた。いつもよりも人が多い。

こうして見れば、もう大多数の人が秋物の服に衣替えしていた。確か、地方の山では天然スキー場もオープンしている。

これからどんどんと冬に変わっていくのだろう。

季節は巡る。ぐるぐると。ダラダラ昼寝してても、目まぐるしく忙しい毎日でも、時だけは一刻一刻と移り行くのだろう。そう考えたら、少しだけ、時間というモノもどこか神秘的に思えてくる。

「ずいぶん人が多いね」

「うん、そうだね」

「これだけ多いと、迷子になるかも」

「へ~……咲子さんでも迷子になる時があるんだね」

「私じゃなくて、のび太くんが」

「ぼ、僕が?」

「だってのび太くん、けっこうドジだからね」

 

「ひ、酷いよ~」

「ハハハ!ごめんごめん!」

彼女は笑いながら、くるくると僕の前で回る。

天真爛漫で、笑顔が絶えない彼女。少しだけ寒がりな彼女は、マフラーを首に巻く。彼女が動けば、赤いマフラーが風に流れていた。

本当に、彼女は可愛いと思う。本当に……

「あ、ちょっとこの店入っていい?」

「ここは……?」

街の片隅にある、アンティークな小物屋。中には色々なものがあった。

人形、絵画、置物……こういうものに、興味があるのだろうか……

「すぐ戻るからね。ちょっと店の前で待ってて!」

「うん。行っておいでよ」

「うん!」

そして、彼女は小走りで駆けて行った。そして、小さなベルの音を響かせ、店に入る。

彼女がいなくなった後、僕は目の前を通る人たちを眺めていた。

こうして見える人たちには、それぞれにそれぞれの人生がある。喜びがある。悲しみがある。悩みがある。

 

 

 

今、僕がこうして考えていることも、もしかしたら誰かが同じように考えているのかもしれない。

何が言いたいかというと……まあ、特に意味もない。

ただ、それだけ多くの人が、色々な形の道を歩いているということだ。そしてそれは、それぞれが自ら選んで来たものであるということだ。

……僕もそろそろ、自分の足で歩くべきだろうな。

いつまでも立ち止まることなく、一歩を踏み出すべきなんだろうな。

流れる人たちの群小を見つめて、そう思った。

――その時、気が付いた。

流れる人の中に、とても見慣れた二人組がいたことを……

(あれは……!!)

目を大きく見開く。人の波の中に紛れた彼と彼女。僕には気付いていないようだ。そして、僕の前を通る時、波が一瞬途切れる。

―――二人は、腕を組んでいた。その二人の表情は、とても幸せそうに笑っていた………

「―――しず―――」

 

 

――声が、出なかった。体が、心が、声を出すことを拒絶した。

そして二人は、再び人の波の中に消えていった。

時間にして、ほんのわずかな時間。ほんのわずかな時間、彼と彼女は僕に見せつけるようにその姿を見せた。
……これが、僕の行動の結果なのだろうか……

思わず、天を仰いだ。

「……ドラえもん、ごめん……」

そしてなぜか僕は、彼に謝る。

秋風が、体を通り抜ける。その風は、とても冷たかった。

「――お待たせのび太くん!」

「ああ……うん……」

「……ん?……んん??」

笑顔で店を出て来た彼女だったが、僕の顔を見た瞬間、僕の顔を下から覗き込み始めた。

 

「………」

「……な、なに?」

「……のび太くん……何かあった?」

「え――!?な、なんで!?」

「だって、のび太くん、落ち込んでる顔してるし」

「そ、そんなことないけど……」

「ふ~ん……」

咲子さんは、どこか腑に落ちない表情を浮かべる。もしかして、僕って顔にすぐ出るんだろうか……

 

「……まあいいや。ねえ、行こ!」

「え?あ、ちょっと――」

彼女は急に僕の手を掴み、商店街を走り始めた。たくさんの人の中を抜けていく。

商店街の中で、走っているのは僕達だけだった。すれ違う人は僕らに視線を送る。

それすらも掻い潜るように、僕らは走った。

僕らが走る方向は、あの二人が消えていった方向とは逆の方向……

腕を引っ張られながら、一度だけ、後ろを振り返る。

――当然だが、二人の姿は、どこにもなかった。

しばらく走った後、僕らは高台の、見晴らしのいい公園に辿り着いた。

「はあ……はあ……つ、疲れたね……」

「はあ……はあ……さ、咲子さんが……走るからだよ……」

二人揃って、肩で息をする。辺りは少し肌寒くなっていた。

それでも、体は熱を帯びる。彼女の額にも、ほんのりと汗が滲んでいた。

「……あ~、空気が気持ちいい……!!」

一足先に呼吸を整えた彼女は、空に向かって大きく体を伸ばす。

 

続いて、僕もようやく息を整えた。

そして二人並んで、公園から見える景色を見下ろした。

「……きれいだね……」

「……うん。きれいだ……」

時刻は昼と夜が交差する時間。

空を見れば、東の空は藍色に、西の空は茜色に染まっていた。そして二つの空の真ん中は、優柔不断な様子で、藍と茜が入り混じる。

星の光はまだ目立たない。それでも、空の片隅では、既に星々が煌めき始めていた。

街並みを見てみれば、ポツリ、ポツリと、徐々に明かりが灯りはじめていた。

遠くに見えるローカル線では、光の列車が線路を走る。街中では車のライトが列を作り、それぞれの帰るべきところへ向けて、光の筋を残していく。

……とても、幻想的な光景だった。

僕らはしばらく、その情景に目を奪われていた。

そして言葉すらも奪われ、街が夜に染まる様子を、ただ眺めていた。

 

「――あ、そうだ!」

突然、咲子さんは声を出し、ごそごそとバッグをあさり始める。

どうしたのかと見守る僕の目の前に、バッグから小さな小袋を取り出した。

「えっと……これは?」

「いいから!開けてみて?」

「……うん」

彼女に促されるまま中を開けてみる。その中には、小さな犬の置物があった。青い、ネクタイを付けた犬だった。

「これは?」

「フフフ……私のは、これ」

そう言って彼女が見せてきたのは、同じく犬の置物。こちらは赤い可愛いリボンが付いていた。

「それが、のび太くん。これが、私」

「ああ、そういうこと……」

「そうそう。――ねえ、取り替えっこしよ?」

「え?」

「いいからいいから!はい、私の」

「う、うん……」

「じゃあ、今度はのび太くんのをくれないかな?」

 

 

「うん。……はい」

「うん!ありがとう!」

そして僕らは、犬の置物を交換し合った。

「ええと……どうして取り替えたの?」

「……だって、こうすれば、いつもお互いを応援出来るでしょ?」

「応援?」

「そうそう。例えばのび太くんが落ち込んで家に帰ると、その置物が励ますの。頑張れー、頑張れーって。
逆に私が落ち込んでいるときは、のび太くんの置物が私を励ましてくれるの。
のび太くんはどうかは分からないけど、私はそれだけで元気になれるよ。いつも、のび太くんが見守ってくれてるって思えるし。
――だから、のび太くんも辛いときは思い出して欲しいな。いつも私が、応援してるってことを……」

「―――」

……その言葉は、彼の手紙と重なった。

―――僕はいつでも、キミを応援してるよ―――

そう思った瞬間、僕の目からは涙が溢れ出してきた。

 

 

「……ひぐ……ひぐ……」

「え――ッ!?ど、どうしたののび太くん!?」

彼女は慌てて、僕の体に触れる。

それでも僕の目からは、止めどなく涙が溢れ出ていた。

苦しいとき、辛いとき、僕はいつも彼の手紙の言葉を思い出していた。そして目の前の彼女は、今まさに、彼と同じ言葉を口にした。

それが本当に嬉しくて、暖かくて……心の奥からつま先まで、優しく包まれるような……そんな感覚だった。

「……」

彼女はただ、僕が泣き止むのを待っていた。僕はひとしきり泣いた後、ようやく落ち着きを取り戻した。

「……ご、ごめん……ありがとう……」

「う、うん……」

彼女は、未だ混乱していたようだ。

彼女が、とても愛おしく思えた。大切にしたいと思った。そして僕の口は、自然と動いていた。

 

 

「ねえ……咲子さん……」

「え?どうしたの?」

「――僕と、付き合ってほしい……」

「――おい、野比」

「……え?あ、はい」

会社で、突然上司に呼び止められた。

何だろうかと思っていたら、上司はとある人物を指さす。

「……あいつ、どうしたんだ?」

「あいつって……」

上司の指の先にいた人物は……

「……咲子、さん?」

「そうそう。見ろあの様子を――」

……確かに、彼女の様子は誰が見ても異常事態だった。

ソファーに座りぼんやりとしながらも、頬は常に緩んでいる。熱でもあるのかと思うくらい顔は桃色に染まっていた。

さらに一番奇妙なのは、突然真顔になったと思ったら、すぐにとろけるように顔が緩む。

 

(ちょっと咲子さん……)

いくらなんでも、緩み過ぎでは……

――と、その時。

「……なあ野比。ここだけの話だが……」

「は、はい……」

「……幸せに、してやれよ……」

「―――ッ!?」

「ハハハ……!!部下のことなど、お見通しだよ!!ハハハ……!!」

そのまま上司は、笑いながら去って行った。

何だかんだで部下のこと、見てるんだな……

――誰かに漏らさないことを、切に願う。

「――咲子さん?咲子さん?」

「……ふえ?――え!?え!?な、何ッ!?」

「いや……そんなに驚かなくても……」

「ご、ごめん!!――じゃなくて!!ごめんなさい!!」

「なんでわざわざ敬語に……」

「あ!う、うん……なんか、緊張しちゃって……」

仕事帰りにご飯を食べながら、そんな会話をしていた。

付き合い始めて1週間。なんか、前より会話が出来ていない……というより、なぜか咲子さんが毎回毎回一緒にいると極度の緊張状態に陥ってしまっている。

 

こんな彼女を見るのは、初めてだった。

「咲子さん、どうしたの?今までと大して変わらないでしょ?一緒にご飯食べてるだけだし……」

「だって……何だか凄く恥ずかしいし……それに、同じじゃないよ。だって私達……つ……つつ、つ……つ、付き合って…るん、だし……」

彼女の顔は茹でタコのように真っ赤に染まる。

……あ、頭から湯気が出てる。

「……重症だね」

「……うん。もしかして……今の私、嫌?」

「そんなことないよ。ほら、ご飯食べよ」

「う、うん……!!」

彼女は、すっかり変わった。

「ふぅ~……」

部屋に帰った後、一度大きく息を吐いた。

「まさか……こんなに変わるなんてなぁ……」

帰りに、咲子さんの手を握ってみた。

 

その瞬間、彼女は顔から火が出る勢いで真っ赤にさせ、下を向いたまま動かなくなってしまった。

……それでも、繋いだ手は決して離すことはなかった。

だから僕は、彼女を守りたいって思う。

こんな僕でも、彼女は幸せと言ってくれた。それが、とても嬉しかった。

ただ……

――カラン

「………」

郵便受けから音が鳴り響く。それはつまり、手紙が届いたということ。

このところ、手紙の頻度が少なくなった気がする。

定期的ではあるが、次の手紙までが間隔が空くようになった。

その理由については分からない。

とりあえず、僕は郵便受けの便箋を手に取り、中の手紙を取り出した。

 

 

―――――――――――――――――――――――――――

のび太くんへ

今キミは、心の中に、色んな想いがあるんだと思う。

どれが本物で、どれが偽物なのか。

キミは、それに悩んでいるんだと思う。

でものび太くん。人の気持ちは、いつも一つとは限らないんだよ。

その一つ一つが、きっとキミの本当の気持ちなんだと思う。

でも、それを全て出してしまうことは、難しいことなんだ。

人は、いつかは岐路に立つんだよ。

そこでどこに向かうのかは、その人にしか分からない。

 

 

キミもきっと、それで迷うことがあると思う。

そんな時は、キミの歩いてきた道を、一度振り返ってごらん。

そうすれば、きっと何かが見えるはずだよ。
――――――――――――――――――――――――

(自分の道を、振り返る――か……)

これまでの僕は、どんな道を歩いてきたのだろう。

小学生の時に彼が来て、夢のような毎日を過ごして、突然いなくなって、悲しみに打ちひしがれて……
自分の道を思い出した僕の脳裏には、彼の姿がいつもあった。

(……まるで、親離れ出来ない子供だな……)

そんな自分が何だかおかしく思えた。

今でも、無意識に彼の助けを望んでいるのかもしれない。

そんな、気がした……

眠るために瞳を閉じる。

薄暗い室内の枕元には、咲子さんのくれた置物があった。

それを見ると、ふと笑みがこぼれた。

「……おやすみ」

ここにはいない彼女に向けて、そう呟いた。

――ピンポーン

 

 

突然、部屋の呼び鈴がなった。

時刻は夜遅い。

いつもなら手紙かと思うが、手紙ならさっき来たばかりだ。

だとするなら、いったい……

「………」

少し、体が震える。

この世ならざるモノを信じるような歳ではない。

それでも、怖いものは怖い。

この恐怖から解放されるには、それが何なのか、確かめる必要があった。

おそるおそる、玄関に近付く。手にはハエ叩き。こんなものが武器になるとは思えないが、何か持っていないと不安だった。

そして、玄関を開けた―――

 

 

「――って、ええええ!?」

そこにいた人物の姿に、思わず声を上げてしまった。

「……こんな時間に、ごめんなさい……」

「し、しずかちゃん!?」

しずかちゃんキター!

キタ――(゜∀゜)――!!

「ど、どうしてここに!?」

(あれ?デジャヴ?)

何だか前にも似たようなことが……

「……この前の、お礼を言いに来たの……」

「………へ?」

「ありがとう、のび太さん。私、嬉しかった。あなたが来てくれて……」

この前?この前とはいったい……

僕がどこに来たって?

言葉の真意は分からないが、しずかちゃんは目に涙を浮かべていた。

「私、とっても不安だったの。たった一人取り残されて、どうすればいいか分からなくて……」

「は、はあ……」

「でも、あなたが来てくれた。あれだけ酷いことをした私を、大切だって言ってくれた。……それが、本当に嬉しかったの……」

いやいやいや、本当になんのことでございましょうか。

「……まあ、のび太さんが持って来た缶詰は食べられなかったし、雪山にコートで来るのもどうかと思ったけど……それでも、私はあなたのおかげで助かったの……」

(缶詰?雪山?コート?――――――――あ)

 

 

 

それらの単語を集計した後、僕は思い出した。

「――でも、どうして私が遭難したって分かったの?」

(……それ、子供の僕ぅううううううううう!!!!)

思い出した!!

そう言えば子供の時、しずかちゃんが雪山で遭難して助けに行ったんだっけ!!

まさか、それがこの前!?

で、でも、まだ秋じゃないか!?

確かに秋でも既に積もってる山はあるけど……もしかして、あれって秋だったの!?

「……あなたが私に言ってくれたこと、本当に嬉しかったなぁ……。やっぱり、私、自分に嘘は付きたくない」

「え?え??」

「――私、あなたが好きよ、のび太さん」

(え、えええええええええええ!!??)

子供の僕!!いったい何言ったの!!??何事態をややこしくしてんの!!??

「話は、それだけ。――私、帰るわね。お休み、のび太さん」

「あ、あ!ちょっと……!」

しずかちゃんは、帰って行った。立ち去る彼女の背中を、僕は呆然と眺めていた。

……こうして、小学生の僕と未来から来た彼の手により、事態はより一層面倒なことになった。なっちゃった。
どうすりゃいいのおおおお……!!

「――つまり、子どもの時ののび太のせいで、色んな誤解が生まれてしまった、と……」

「うん……そうなんだ……」

 

ジャイアンのオフィスで、僕は彼にありのままの出来事を告げた。

ジャイアンは腕を組みながら、それを聞く。

「それにしても、のび太に彼女が出来てたなんて知らなかったぜ……そっちの方が驚きだ」

「秘密にするつもりじゃなかったんだけど……言ってなくてごめん……」

「いやいいんだよ。むしろ、祝福したいくらいだ。……それにしても、しずかちゃんの方だな……」

「うん……」

「……やっぱ、ありのまま言うしかないだろ。助けに来たのは、子供の時の自分ですって」

「そうだよね……それしかないよね……」

「そうだ。それしかない。じゃないと、このままじゃみんなが不幸になるぞ?」

「うん……そうだね。ありがと、ジャイアン」

「いいってことよ。また、いつでも相談に来いよ」

ジャイアンに見送られながら、僕は会社を後にする。

確かに、正直に言わなきゃいけない。

でも、とても言い辛いのは事実………

(でも、しょうがないよね……)

重い足を引きずるようにしながら、僕は道を歩き出した。

「………」

 

 
 

 

重々しい空気を肌で感じながら、僕はその建物の前に立った。

そこは、しずかちゃんの会社。あと、ついでに出木杉の会社。

電話したが繋がらず、こういうことは早い方がいいというジャイアンの助言を元に、僕は単身彼女の仕事場を訪れた。

しかしながら、こういう私的な用件のために職場を訪れるのは気が引くなぁ。

だが、僕の本能が言っている。

――この件は、早急に片付けるべし、と……。

(……了解)

自分の本能に返事をしつつ、僕はその建物に脚を踏み出した。低姿勢で。

一階正面には受付の女性が座っていた。

とりあえず、しずかちゃんとの謁見を申し入れてみることにした。

「あ、あの……」

「はい。いかがいたしました?」

「ここで働いている、源しずかさんとお会いしたいのですが……」

「失礼ですが、ご用件をお伺いしてよろしいですか?」

「ご、ご用件……」

……言えない。

 

とても、『先日遭難を助けたのは実は子供のころの自分だったからそれを伝えに来た』なんて言えない。

言えるはずもないだろう……

「……あの、ご用件は?」

さすがの受付の人も、不信感に満ちた視線を送り始めていた。もう少ししたら、おそらく警備員が直行してくるだろう。

それはマズイ。さすがにマズイ。

かと言って、なんて説明すればいいかも分からない。

それでも、このまま通報されるくらいなら……僕は、腹をくくった。

「……あの、実は先日―――」

「―――おやぁ?キミは、いつぞやの―――」

意を決し、途轍もなく嘘くさい純然たる本当の用件を口にしようとした直後、背後から声がかかる。

ゆるりと後ろを振り返れば、どこかで見た人が……

「―――ええと、舞……さん?」

「よっ、のび太!久しぶりだねえ!」

舞さんは、相変わらずの笑みを見せながら、僕に挨拶をした。

「――残念だったな。急な用件か?」

「そ、そうではないですが……」

会社の屋上で、僕と舞さんは柵に寄りかかりながら話をしていた。

そこで舞さんは、しずかちゃんが出張中でいないことを告げてきた。

完全に予定が外れた僕は、残念な気持ち半分、ホッとした気持ち半分の、複雑な心境で缶コーヒーを一口飲み込んだ。

 
 

 

「事前に連絡してれば、ちゃんとした日付を指定してやれたんだがな」

「……いや、舞さんがいたことをすっかり忘れてまして……」

「……ケンカ売ってるのか?」

「滅相もありません。すみませんでした」

「まったく……あれだけ心躍る出会いをしたというのに、忘れるとは……」

(衝撃的な出会いだったのは間違いないけど……)

すると舞さんは体を反転させ、外の方を見ながらタバコを吸い始めた。

「タバコ、吸うんですね……」

「まあな。まあ、印象はよくないから、人前だとあまり吸わないがな」

「確かに、見る人が見れば批判しそうですね。……でも、似合ってますよ」

「フォローしてるつもりか?」

「滅相もありません」

「……少しはフォローしろ」

それから僕らは、屋上から街を見渡した。

「どうだ?会社の方は」

「普通ですよ。怒られてばかりですけど」

「そうだろうな。キミを部下に持つと、色々と苦労しそうだ」

「……やっぱり、そう見えますか?」

僕の言葉に、舞さんは声を上げて笑う。

 

 

「スマンスマン。――だが、上司はキミを可愛がってくれてるだろ?キミを邪魔とは思ってないよ」

(可愛がってくれてるかどうかは分からないけど、助けてくれることは多いかも………って――)

「なんで知ってるんですか?」

「ハハハ、知ってるわけじゃないよ。ただ、しずかが言ってたのが本当だとするなら、キミは誰かに嫌われたりすることの方が少ないだろうからな」

「は、はあ……」

「本当だぞ?何しろ、私もキミに好印象を持っている。……どうだ?ありがたいだろ?」

「………」

何だか恥ずかしくて、何も言えなかった。

そんな僕を見た舞さんは、一度笑みを浮かべた。

「……しずかはな、会社に入ったころから、キミのことを話してたよ」

「……僕のことを、ですか?」

「ああ。小さい頃からずっと一緒にいた男の子の話だ。――いつもはドジで、頼りなくて、オドオドしてて、見ていてほっとけなくなるそうだ」

「ははは……」

 
 

 

失笑が込み上げる。

「……でもな、困った時は一緒に悩んでくれて、悲しい時は一緒に泣いてくれて、嬉しい時は誰よりも喜んでくれる……そんなとても暖かくて、優しい男の子だそうだ」

「……買いかぶり過ぎですよ」

「謙遜することはない。事実、私もそう思う。……しずかがキミのことを話すときは、いつも幸せそうな顔をしていた。その顔は、しずかのどんな表情よりも、慈愛に満ちていたよ」

(……しずかちゃん……)

「――キミはきっと、近くにいる者を優しい気持ちにさせる人なんだろう。だから、キミの心に触れた人は、そこから離れようとはしない。キミという光の元に、いつまでもいたいと思ってしまうんだろうな。ハハ、ちょっとクサかったな」

「い、いえ……」

「キミは、それに対して自信を持っていいんだ。それはキミの、誇れることなんだ。……私は、そう思う」
「………」

「話が逸れてしまったな。……すまないが、私は仕事に戻らないといけない。まあ、なんもないところだけど、ゆっくりしていけ」

「は、はあ……」

「じゃあな、のび太……」

 

舞さんは、屋上を後にした。

残された僕は、舞さんの言葉に少し照れながらも、屋上から街を見下ろす。そして、手に持っていた缶コーヒーを一気に飲み干した。

少しだけ苦い。だけど、口の中には、とてもいい香りが広がっていた。

会社を後にした僕だったが、結局肝心の用件は終わっていなかった。

何しろしずかちゃんは不在だったわけだし。

出張からいつ帰るかも聞き忘れてしまっていた僕は、ただしずかちゃんからの返信を待つことにした。

ケータイを開けば、否が応でも気が付くだろう。

とぼとぼ歩いて家に帰っていたが、ふと、ケータイの着信がけたたましく鳴り始めた。

取り出して見てみれば、パネルには“花賀咲子”の名前が。

(なんだろ……)

気になった僕は、とりあえず電話に出ることにした。

「もしもし」

『もしもしのび太くん?今、電話大丈夫?』

「うん。大丈夫だけど……どうしたの?」

『ええとね……その……』

電話の向こうで、咲子さんは煮え切らない口調で何かを言おうとしていた。

 
 

 

(……?なんだろう……)

不思議に思っていると、電話口で深呼吸する音が。そして……

『……あのね、今晩、時間ある?』

「え?ああ、うん。時間あるよ」

『じゃあさ……ご飯、食べない?』

「食べに行くの?いいよ」

『そうじゃなくて!ええと……』

再び、モジモジモード突入。あまり急かすのも悪いから、黙って彼女の言葉を待つ。

しばらく待っていると、彼女はようやく、用件を伝えて来た。

『……私の家に、食べに来ない?』

「………へ?」

「こ、ここが……!!」

 

 

 

 

とある住宅街の一角にあるマンション……僕は、その前に立っていた。

さしずめ王様に褒美をもらう前の勇者か、はたまた魔王との戦いを目前に控えた勇者か……

どちらしても、僕は勇者という器ではないのだが。

それはいいとして、なぜか急に自宅に招かれることに。

彼女情報によると、実家は他所にあるらしく、現在はルームシェアをして住んでいるとか。

そして同居人が今日は仕事で遅くなるため、一人で食べるのも寂しいし、せっかくだから一緒にどう?的な話の流れとなったわけだ。

……ちなみに、それを理解するのに、数十分を要していた。極度の恥ずかしがり屋症候群に陥った彼女の言葉は、中々解読が困難なのだ。

「……さて、行くか……」

生唾を飲み込み、僕はその場所に侵攻した。

マンションはオートロック式であったため、エントランスにあるインターホンで彼女の部屋の番号を押す。

『――はぁい』

彼女の声だ。

「ええと……の、のび太だけど……」

『あ!い、いらっしゃい!ちょっと待ってね―――』

彼女の言葉に続き、自動ドアが開く。

『……いいよ。入ってきて』

「おじゃまします……」

まだ彼女の部屋についたわけではないのに、なぜかそう言ってしまった僕は、やはり緊張しているのだろうか。
何はともあれ、僕はついに彼女の部屋へと向かうことになったのだった。

 

 
 

 

(ここが、彼女の部屋……)

部屋の前に立ち尽くす。目の前に扉があるのに、凄まじく遠くに感じる。

どうやら僕は、相当緊張しているようだ。

それもそうだろう。しずかちゃん以外の部屋に入るのは、これが初めてだった。

ちなみに、しずかちゃんの部屋も、中学に入ってからは入ってはいない。

そう言う意味では、女性の部屋に入ること自体が、初めてと言えるのかもしれない。

おそるおそる呼び鈴を押す。

「――は、はい!ちょっと待って――!!」

中から玄関に、小走りする音が響いて来る。

そして……

「お待たせ!!」

ドアは内側から勢いよく開かれた!!

―――僕の顔にぶつかりながら……

少し、ドアに近付き過ぎていたようだ。

「ああ!ごめん!……大丈夫?」

悶絶する僕を心配する彼女に、とりあえず痛みに耐えて笑顔を見せた。

 

「……う、うん。大丈夫だよ」

「………」

彼女は、僕の顔を見つめる。

「……のび太くん……」

「え?な、なに?」

「――鼻血出てるよ!!」

「え?――――ああああ!!」

二人でギャーギャー騒ぎながら、すぐさま家に上がり込み、止血をした。

……初めて彼女の部屋に訪れた僕は、いきなり、鼻血の治療をすることになった。

(か、カッコ悪い……)

「……ホントにゴメンね……大丈夫?」

 

 
 

 

治療を終えた彼女は、申し訳なさそうに声を出す。

「いや、そもそも僕が悪いんだし。心配かけてゴメンね」

「ううん。大したケガじゃなくて本当に良かった……」

そう言って、彼女は胸を撫で下ろした。

そこでようやく、彼女の部屋を見渡してみる。

部屋は、実に女の子らしい部屋だった。家の至る所に、ぬいぐるみが置かれている。きちんと掃除も行き届いているし、散らかってる様子は一切ない。

部屋の中では、仄かに甘い香りが広がる。どうやったらこんな香りが充満するのか、ぜひ知りたいところだ。

その香りの中には、何やら不思議な香りが混じっていた。

「ん?この香り……」

「うん。もう料理出来てるよ」

そう嬉しそうに話すと、彼女は小走りでキッチンへと向かう。

そして皿を取り出し、よそおい始めた。

そのキッチンで、僕のためにいそいそと料理を作る彼女の姿を想像しただけで、なんだか幸せな気持ちになる。

「――お待たせ」

準備が終わったところで、彼女は少し恥ずかしそうにそう呟いた。

「こ、これは……!!」

目の前にテーブルには、所狭しと料理が並ぶ。どれもこれも美味しそうだ。美味しそうだが……!!

(す、凄まじい量だ……!!)

テーブルは中々広い。そこに隙間なく埋められた料理の数々。これは、何人分だろうか……

「いっぱい作ったから、たくさん食べていいよ!」

嬉しそうに話す彼女。嬉しいさ。それは嬉しいけど、ちょっと食べきれそうにはない。

それでも、彼女が一生懸命作ってくれたものだ。

僕は、残さず食べることを決意する。まさに、決死の覚悟だった。

まず先に、スープを一口すする。

「………」

「………どう?」

「うん!凄く美味しい!」

「ホント!?良かったぁ……」

スープはかなりの美味。だがしかし、見た目はコンソメスープなのに、味は全然違っているのはなぜだろうか。

 

 
 

 

これぞ、咲子さん流ギャップ料理ということか。

以前作ってくれた雑炊もそんな感じだったしなぁ……まあ、普通にかなり美味しいから、細かいことは気にしないでおこう。

僕はとにかく、目の前の料理を食べ続けた。

あまりガッツくと引かれそうではあったから、普通のペースで食べる。

彼女も食べてはいたが、どちらかと言うと、食べる僕の姿を見ることが多かった。そして時折視線が合うと、幸せそうに微笑み。

その顔を見ると、思わず僕も笑みがこぼれていた。

……とはいえ、かなりきつくなってきた。

料理はまだ半分ほど残っている。正直、これだけ食べれただけでも大善戦だ。

(張り切って作ったんだろうなぁ……)

そう思うと、ますます残すわけにはいかない。

――時に男は、多少無理をしてでも、やらなければならないことがある。それが、男のアイデンティティー。

ペースは崩さず、とにかく食べ続けた。美味しいこともあり、食は中々進む。苦しさを我慢すれば。

しばらく食べたところで、彼女は感心するように声を出した。

「のび太くん、思ったよりも食べるんだね!残ったらタッパーに入れて持って帰ってもらおうって思ってたけど、その必要はなさそうだね」

(なぬっ!?タッパーとな!?)

……どうやら、食べ残ること前提の量だったようだ。

 

それを知った僕は、すぐさま白旗を上げた。

「……ご馳走様。とても美味しかったよ」

「そう言ってくれると嬉しいな。片付けまで手伝ってくれて、本当にありがとう」

二人で皿を洗いながら、そう話す。

食器洗いは彼女担当。拭いてしまう担当は僕。

共同作業により、片付けはスムーズに終えることが出来た。

食後は、彼女が用意してくれたコーヒーでティータイム。テーブルに座り、雑談を交わす。

僕らは色々なことを話した。職場のこと、休みの日のこと。会話は弾み、時間も忘れていた。

「――あ!もうこんな時間!」

「……ほんとだ。全然気が付かなかった」

時計の針は、間もなく日付が変わる時間となっていた。

 

 

彼女は、進む時計の秒針を、どこか名残惜しそうに見つめる。どうやら、もっと話したいようだった。

「……もう少し、話そうか」

「え?で、でも、遅くなっちゃうし……」

「少しくらいなら大丈夫だよ」

「……ありがとう。のび太くん、やっぱり優しいね……」

そう言うと、彼女は笑みを浮かべながら、コーヒーのカップを見つめた。

「私ね、今、本当に幸せなんだ。こうやってのび太くんに料理作ってあげれたし」

「……咲子さん……」

「実はね、私の料理食べた男の人、のび太くんが初めてなんだよ?」

「そうなの?」

「うん。私、昔から料理を手伝ってたんだ。お母さんの真似をして、お姉ちゃんに味見してもらって……いつか、大好きな人に作ってあげたい……そう思ってたんだ」

(……ということは、あのギャップ料理は、そこで培われたのか……)

「だから、今その夢が叶って、とても幸せなの。……ありがとう、のび太くん。私、あなたと出会えて良かった……」

そう話す彼女は、目に涙を浮かべていた。自分の気持ちを素直に表現し、今僕に見せている。それが、とても嬉しかった。

「……僕も、咲子さんと出会えて良かったよ……」

「のび太くん……」

「………」

部屋は、静まり返っていた。

 

時計の針だけが音をならす空間の中、目の前に座る彼女は、目を閉じた――――

(――――ッ!!!こ、これは――――!!!)

(ま、間違いない―――GOサインだ……!!)

迫る、緊張の瞬間……

「………」

目の前にいる彼女は、瞳を閉じたまま何かを待つ。

僕の心臓は激しく脈動する。見れば彼女もまた、僅かに震えていた。

(据え膳食わぬは男の恥というが……これはなかなか、勇気が……)

そうは言っても、目の前の彼女はここまでの勇気を見せてくれている。これに応えなければ、むしろ失礼だろう。

彼女の気持ちに、恥を塗らせてはいけないのだ。

(……よ、よし……)

一度唾を飲み込み、顔を近づける。段々と彼女との距離は詰まり、すぐ目の前には桃色に染まった唇があった。

そして僕は、目を閉じ―――――

「―――ただいまー!」

「―――ッ!?」

 

 

突然、玄関が開く音が聞こえ、女性の声が部屋に響き渡った。二人揃って体をビクリとさせ、その方向に目をやる。

「か、帰って来ちゃった……!!」

「え、ええ!?」

(咲子さんが言ってた、同居人!?こ、このタイミングで!?)

口惜しや……実に口惜しい……!!神様がいるのなら、それはきっと、かなりの天邪鬼だろう。もう少し、時間を置いてほしかった。

「咲子ー?いないのー!」

「――は、はーい!今行くー!」

名前を呼ばれた彼女は、一度残念そうに僕の方を見た後に、玄関へと向かっていった。

……僕はそのまま、脱力するように天を仰いだ。

「―――え!?彼氏!?ホントに!?」

玄関からは、同居人さんの驚く声が響く。当たり前だが、女性のようだ。そしてその人は、ツカツカと廊下を歩く音を響かせた。

……至福の瞬間を邪魔した人物の顔……しっかりと拝んでやろうではないか。

そして、ドアが開かれる。

「―――初めまして!私、咲子の姉の――――――え?」

「―――え?」

互いの顔を見るなり、二人揃ってフリーズする。

目の前の人物が信じられず、一度目を擦って見直してみた。だが、間違いなかった。

そして時は動き出し、同時にお互いの顔を指さす。

「「えええええええええええ!!??」」

「のび太!!なんでアンタがここに!!??」

「ま、舞さんこそ!!なんでこの家に!!??」

声を上げる二人。それに続き、咲子さんがリビングへと戻って来た。

「……お姉ちゃん?どうかした?」

「お……お、お……お姉ちゃん!!??」

「……さ、咲子……彼氏って……まさか……!!??」

「………?」

「………」
そのまま、僕と舞さんはしばらく思考が停止した。

 

ただ一人状況が呑み込めない咲子さんは、不思議そうな顔で首を捻るのだった。

「いやあ!まさか、咲子の彼氏がのび太だったとはな!」

咲子さんの部屋で、舞さんはビールを片手に豪快に笑う。

「ホント不思議だね……まさか、お姉ちゃんの知り合いなんてね……」

咲子さんはおつまみを出しながら、感慨深そうに呟く。

「………」

一方、話題の中心にいる僕は、気が気ではなかった。

舞さんは僕が咲子さんの彼氏だと気付くなり、しばらく顔を見た後、まるで何事もなかったかのように接し始めた。

いったい、何を考えてるのだろうか……

「――あれ?ビールなくなっちまった……。咲子!ちょっとビール買ってきて!」

「もうお姉ちゃん!今日はちょっと飲み過ぎだよ!」

「固いこと言わないって。せっかくのび太もいるんだし。な?のび太?」

「は、はい……」

「――ってことだ。すぐそこのコンビニにあるだろ?ちょっと頼むよ」

「……もう。仕方がないなぁ……」

ぶつぶつ文句を言いながら、咲子さんは部屋を出ていった。

 

 

残されたのは、僕と舞さん。玄関が閉まる音が響くなり、舞さんは先ほどまでの緩い顔を一変させ、真剣な表情を見せた。

「――で?これはどういうことだ?説明してもらおうか……」

その目には、凄まじい威圧感があった。

そんな視線を受けた僕に抵抗など出来るはずもなく、ことの経緯を洗いざらい説明した。

「――そうか……咲子が……」

「もちろん、僕からも交際を申し込みました。それが、今の関係です……」

「そうか……」

難しそうな顔をしながら話を聞いていた舞さんは、話を聞き終えると目の前にあるビールを一気に飲み干した。

(まだ入ってたんだ……ってことは、さっきのは僕と二人になる口実だったわけか)

「……まさか、しずかの最大のライバルが、我が妹とはな……。世間ってのは、つくづく狭いもんだ……」

「……僕も、まさか舞さんが咲子さんのお姉さんとは思いませんでした……」

「まあ、いくら信じられなくても、純然たる真実としてあるわけだから、そこは何を言っても無駄だろう。

――それより、問題はアンタのことだ……」

「ぼ、僕ですか?」

「ああそうだ。――のび太、お前、正直な話、どっちなんだ?」

「どっちなんだと言われましても……」

「簡単な話だ。しずかと咲子……この日本においては、一夫多妻制は認められていない。どちらかを選ばなくてはならない。……お前は、どっちを選ぶんだ?」

「そ、それは……」

「即答――出来ないんだな」

「………」

 

 

 

舞さんの威圧感は、僕の心臓を鷲掴みにするかのようだった。

それは、即答できなかった僕に対する、舞さんなりの怒りなのだろう。僕は、黙り込んでしまった。

「……すまない。少し意地悪が過ぎたな」

「……いえ」

「だがのび太。一つ、理解しておけ。お前は確かに優しい。相手のことを想い、気遣いが出来る男だ」

「………」

「……でもな、その優しさが、返って誰かを傷付けることもある。
今お前は、二つの岐路に立っている。しずかか、咲子か……どちらの気持ちもお前に向いている以上、そのどちらかを選ばなくちゃならない。
そしてそれが意味することは、必ず、誰かが傷付くということだ」

「咲子か、しずかか……それともその両方か……それは、お前にしか決められない。そしてな、その傷は、決断が遅ければ遅いほど、深く突き刺さるんだよ」

「……はい」

「正直、私はどちら側に付くことも出来ない。咲子は、私の大切な妹だ。しずかは、私の可愛い部下だ。二人とも私の宝で、幸せになって欲しい」

「それは……当然だと思います」

 

「とにかく、よく考えておけ。そして、早く決断しろ。じゃないと、いずれアンタを含めた全員が傷付くことになる。深く、惨たらしく。
――そうなったら、私はアンタを一生許さない。たぶんな」

「……私は、のび太、お前のことも好きなんだよ。だから、私にそう思わせないでくれ」

「頼んだぞ……」

それ以降、舞さんは何も言わなかった。

それから、僕は咲子さんが帰って来るのを待って、自宅に帰った。

咲子さんは名残惜しそうにしていたが、さすがに時間も遅かったので引き留めることはなかった。

舞さんはヘラヘラ笑いながら手をひらひら振っていたが、帰り際、静かに耳打ちをしてきた。

『のび太……しっかりな……』

とても、穏やかな口調だった。――でも、とても重い言葉だった。

夜道を歩きながら、トボトボと帰っていく。

夜風は冷たく、心まで冷やすかのように僕の体を通り抜ける。

今日は星が見えない。月のない夜だからよくわからないが、薄く雲が張っているのかもしれない。

暗闇の空を見上げて、一度足を止めた。

そして空の彼方に向けて、呟く。

「……ドラえもん、キミなら、今の僕に、なんて言うんだい?」

この街のどこかにいるなら、同じように、この空が見えているだろう。会えない彼に、空を経由して言葉を送ってみた。

――当然、空は何も答えることはない。

「……なんて、ね……」

 

 

見上げることを止め、再び歩き始める。

(いつまでも、彼に頼るわけにはいかないよね。彼は、僕ならいい方向に決めれるって言ったんだ。……それで、十分じゃないか……)

まずは、自分で出来ることをしよう。そう、思った。

僕は、誰もいない夜道を歩いて、家に帰った。

――それから数日後、僕はとある場所を目指していた。

電車を乗り継ぎ、その場所を目指す。

駅を降りたあとは、一度大きく息を吸い込んだ。

「……ずいぶん、久しぶりだなぁ」

固いアスファルトで舗装された道路を踏みしめながら歩く。いつもよりもペースは遅い。その場所の景色を、眺めながら歩いていた。

あまり様子は変わってはいない。ただ、空き地はなくなっていて、小さなアパートが立っていた。

やがて、その場所に辿り着いた。

少し見上げたその家は、古ぼけていた。

「こんなに、小さかったっけ……」

懐かしさを胸に、僕は呼び鈴を押す。

「――はぁーい」

中から、よく聞き慣れた声が響き渡った。そして、玄関は開く。

「どちら様―――あら?のび太?」

白髪交じりの髪をしたその人は、僕の顔を見て少し驚いていた。

「や、やあ……」

でも、すぐに優しい表情に戻した。

「……いらっしゃい。よく来たわね。――あなたー!のび太が来たわよー!」

その声に、家の中からもう一人が姿を現す。

「――のび太。よく来たな」

二人は、並んで僕を出迎えた。二人とも、とても穏やか表情で。

少しだけ照れてしまったけど、僕は少し声を大きくして、二人に言う。

「――ただいま、父さん、母さん……」

「――会社は、うまくいってるか?」

「うん。順調」

 

「そうか。それは何よりだ……」

台所で昼食を食べながら、父さんと話す。

「やぁねぇ、仕事の話は止しましょうよ。せっかくのび太が休みで来てるんだから」

母さんは苦笑いをしながら、お茶を用意する。

久しぶりの母さんの料理だった。美味しいこともあるが、それ以上にどこか懐かしい。おふくろの味って言うんだろうな。僕は、この味が好きだ……

「それにしても急ね。連絡すればもっと色々準備していたのに……」

「うん、ちょっと思い立ってね。ごめんごめん」

「なあに、別に構わんさ。こうして元気な顔を見せてくれるだけで嬉しいよ」

「うん……ありがとう」

父さんと母さんは、優しくそう話す。

小学校の時は、毎日のように怒られていたけど……その時も、後から決まって穏やかな表情で僕を見ていた。

怒られた記憶も、優しく慰められた記憶も、全てがこの家には詰まっている。

そして父さんと母さんは、変わらない笑みで僕を見ている。

少しだけ、重荷を置いて行こう……そう思った。

昼食の後、僕は2階の自分の部屋に行った。

綺麗に片付けられていて、埃も溜まっていない。母さんが掃除をしているようだ。

本棚のマンガは、年期は入っていたが、昔のままだ。

「……これ、懐かしいな……」

その一冊を手に取り、パラパラと捲る。昔、大笑いをしていたマンガだ。

内容自体は、当然だが子供向け。画風は今のものに比べてかなり古い。それでも、何だか懐かしくて、思わず笑みが零れた。

次に僕は、押入を開ける。そこには、布団が2セット収納されていた。

『ドラちゃんが帰ってくるかもしれないから……』

母さんはそう言って、ドラえもんの布団を残し続けている。そして今は、僕の分も。

二人分の布団は綺麗に折りたたまれ、いずれ使われる時を待っていた。

最期に、机を眺めた。

 

 

 

 

久しぶりに見る机は、とても小さかった。一度指で、机上をなぞる。昔ながらのアルミ製の机だった。

キャラクターの絵も、動く袖机もない。それでも、とても懐かしくて、僕にとって掛け替えのない宝物だ。

だって彼は、この机の引き出しから出てきたんだから……

僕は何かを期待するように、引き出しを開けてみた。鈍い音を鳴らした机は、その場所を解放する。

――そこは、ただの引き出しでしかなかった。

「……ま、そうだろうね……」

そこまで期待をしていたわけではない。それでも、何だか少しだけ、寂しく思った。

その後、外に出た。もう一度、街を歩いて回る。

街角のタバコ屋、雷爺さんの家、みんなの実家……。過ぎ去る景色は、僕の心を、まるで昔にタイムスリップさせるかのようだった。

河原の野球場では、子供たちが草野球をしていた。

施設が、ずいぶん新しい。

この野球場、実は最近整備されていた。それまでの野球場は、この十年でかなり老朽化していた。雑草が生い茂り、フェンスもボロボロになっていた。

それを、ジャイアンが修復した。もちろん当時野球をしていた僕らも、資金を出し合った。

『ここは、俺達ジャイアンズのホームグラウンドだ。またここで、絶対野球するんだ』

これが、ジャイアンの修復発案時の言葉。それに全員が賛同し、修復した。

しばらく河原に座り込み、野球を見る。少年達はワイワイ騒ぎながら、試合を楽しむ。

「打ったら逆転だぞー!!絶対打てよー!!」

ふと、一人の少年がバッターボックスに立つ少年にそう叫んだ。

「……打たないと、ギッタギタだからな……か……」

脳裏に焼き付けらた、ジャイアンの言葉を思い出した。

「打てないくらいで殴られるって……今考えても理不尽だよな……」

懐かしきジャイアン理論に、思わず苦笑いが浮かぶ。

「――野比?野比か?」

野球を見ていると、後ろから声をかけられた。白髪の、スーツを来たメガネのオジサン。

 

 

「……あなたは……先生……」

先生は、ニコッと笑みを浮かべた。

「……久しぶりだな、野比―――」

「……そうか。帰省してたのか……」

先生は僕の隣に座った。野球場からの少年達の声を聞きながら、雑談を繰り返す。

「先生は、まだあの小学校に?」

「まあな。ただ、私ももうすぐ定年だ」

「先生が……定年……」

時間の流れを感じた。あれだけ怖かった先生も、すっかり穏やかな表情となっていた。

髪も白くなり、体格も丸い。

「……しかし、野比も社会人か。あれほど0点を取った生徒は、野比、お前だけだったぞ?」

「ハハハ……面目ないです」

「いやいや、もう昔のことだ。それに、キミは今ちゃんと社会人として働いているではないか。
――あの頃は、私はキミたちに勉強をしてもらいたいがために厳しく言っていたが、キミの良さは分かっていたつもりだよ」

「僕の、良さ……」

「仲間思いで優しい男の子……勉強は出来なくても、それ以上に素晴らしいものを持ったのが、キミだ」
「……恐縮です」

「まあ、もう少し勉強が出来ていれば文句はなかったんだけどな!ハハハハ……!」

声を出して笑った後、その場を立ち上がる。

それに続き、僕も立ち上がった。

「……さて、私はそろそろ行かせてもらおうか」

「はい……先生、お元気で……」

「ああ。野比もな」

そして先生は、そのまま去って行った。

 

遠退く先生の背中は、どこか小さく見えた。

家に帰った後、僕は父さんと酒を交わす。

父さんは、上機嫌だった。顔を赤くして、ニコニコ笑っていた。

「――まさか、のび太と酒が飲める日が来るとはな!月日が経つのは早いものだ!」

父さんは僕のコップに、次々とビールを注ぐ。

「……僕、そんなにお酒強くないんだけど……」

「細かいことは気にするな!さあ!どんどん飲め!」

父さんはすっかり酔ってしまっているようだ。ノリが、会社の上司によく似ている。

苦笑いする僕に、追加にビールを持って来ていた母さんが後ろから笑いながら話しかけて来た。

「お父さんね、楽しみにしてたのよ?のび太とお酒を飲むことを」

「父さんが?」

「そうよ。いつも家で晩酌をする時に言ってたの。ここに、のび太がいてくれたらなぁって……」

「………」

「口では言わないけど、お父さん、寂しかったのよ。……もちろん、私もね……」

「……うん」

 

両親を安心させようと思って一人暮らしをした僕だったが、父さんと母さんは、別のことを思っていたようだ。

いくつになっても、子供は子供……誰かが言った言葉だ。

その意味が、少しだけ分かったような気がする。

父さんは相変わらず笑顔でお酒を飲む。母さんはお酒を飲まないのに、そんな僕達を座って見ている。

ずっと一緒に暮らしていた父さんと母さん。でも、一緒にいた時には薄れていたモノが、僕の中にはっきりと浮かび上がっていた。

――父さんと母さんの想いが、僕の中に注がれていたようだった。

「……父さん、お酒、注ぐよ」

「お!ありがとうな!」

その日は、夜遅くまで父さんと酒を交わす。心の中のしこりのようなものが、少しずつ溶けだしている気分だった。

――ふと、僕は目を覚ました。

「……うぅん……寝ちゃったのか……」

時計を見れば、時刻は真夜中。頭が痛い……

その時、僕は気が付いた。

今の掃出し窓が開き、そこに、父さんが座っていた。母さんの姿はない。どうやら、先に眠ってしまったようだ。
父さんは僕が起きたことに気が付き、微笑みながら顔を振り向かせた。

「……すまん、起こしてしまったか……」

「ううん。大丈夫。……こんな夜中に、何をしてるの?」

「ああ。……月を、見ていたんだ……」

「月を?」

「そうだ。……なあのび太、こっちに来て、一緒に見ないか?」

「……うん」

僕は、促されるまま父さんの隣に座る。

「……綺麗だね」

「そうだろ?月が見えて、のび太がいて、のび太と酒を飲んで……最高の夜だ……」

僕らは月を見上げる。

 

幸い、今日は雲がなかった。窓からは丸い満月が空に座し、夜の街を仄かに照らす。

星々の光は月光に遮られ、あまりはっきりとは見えない。でも、まるで星達の分まで輝くように、月は、優しく光を降り注がせていた。

少しの間、僕と父さんは、月の光が織りなす神秘的な劇場を、静かに眺めていた。

「――ところでのび太」

突然、父さんが切り出した。

「うん?何?」

「誰か、いい人は見つかったか?」

「いい人?」

「結婚相手のことだよ」

「け、結婚!?」

「何を驚いてるんだ。のび太ももういい年だ。そろそろ結婚を考えてもおかしくはないぞ?」

「そ、そうなんだろうけど……いきなり結婚なんて……」

戸惑う僕に、父さんは声を出して笑う。

「いやいやすまん。ちょっと話を飛躍させ過ぎたな。……まあ、結婚まではいかなくても、付き合ってる人はいないのか?」

「……まあ、一応……」

「そうか……それはよかった……」

付き合ってるのは付き合ってる。……だけど、この前の舞さんに言われたことを思い出した。

……結局僕は、中途半端なんだ。

 

「……のび太、お前は、少し抜けてるところがあるからな。お前に合うのは、きっと、しっかりした人だろうな」
「う、うん……」

「まあいずれにしても、自分の目で見て、頭で考えて、相手を決めろ。そしてな、一度決めた相手は、一生大事にしろ。
家族を蔑ろにする奴は、幸せなんて手に入れることは出来ないんだ。
どれだけ仕事がうまくいっても、どれだけお金があっても、幸せってのは、それとは関係ないところから生まれるものなんだよ」

「……」

「……大丈夫だ、のび太。お前なら、必ず幸せな家庭を作れるはずだ。――何せ、お前は僕の、自慢の息子だからな」

「……0点ばっかり取ってたけどね」

「勉強なんて、最低限のことさえしていればいいさ。実際に、お前は高校まで卒業出来たんだ。十分だ」
「そっかな……」

「そうだ。お前は、自分の人生に自信を持っていい。――お前は、幸せを生み出すことが出来る」

「……ありがとう、父さん」

「……さて、そろそろ寝るとするか」

「うん……」

そして僕らは、それぞれの寝室に戻る。

僕は二階に上がり、布団に横になった。

久しぶりの自分の布団。眠る前に、一度押入に目をやる。

そこにいた彼は、今何をしているのだろうか………そんなことを考えていた。

……いや、それももう止めにしよう。

 

父さんも、先生も、舞さんも、そして、彼も……みんな、僕に自信を持っていいと言っていた。

僕は、いつも彼に頼ってばかりだった。

全ての願いを、叶えてくれる彼。困った時は、いつでも助けてくれた彼。

……でも僕は、もう大人になった。

子供のころにはなかった責任だとか柵(しがらみ)だとかが、今の僕の周りにはある。

その中で僕は、自分で考えて、行動して、いくつもの選択肢を選んでいかなければならない。

それは、とてもキツイことだと思う。時には落ち込むこともあるだろう。どちらを選んでも、不運しかない状況も出てくるはずだ。

でもそれは、誰でも経験することなんだ。誰でも悩んで、それでも選択を繰り返しているんだ。

僕ばかりじゃないんだ。それなのに、ずっと彼のことを頼り続けているわけには行かない。今僕は、自分の足で歩き出すべきなんだろう。

――ドラえもんは、きっとそれを僕に伝えたくて、手紙をくれていたんだ。

姿を見せず、僕が自分の足で歩くように促していたんだ。

だったら、彼のためにも、僕は足を踏み出す。ゆっくりでも、自分の足でこれからを歩いて行く。

(じゃないと、キミに笑われるしね……)

最期にもう一度だけ押入に視線を送った僕は、一人静かに、微睡の中に意識を沈めていった。

それから僕は、実家を後にした。

街並みを見渡しながら駅まで歩き、電車に乗る。窓から見える景色を横目に、電車に揺らされていく。

そのまま家に帰り、荷物を片付けた後、とある人物に連絡を取った。

思いのほかあっさりと連絡が取れたのが幸いだった。

「……うん……そうだよ……じゃあ、待ってる……」

電話を切り、服を着替える。

これから、僕は歩き出す。

最期に家を出る前に、これまでドラえもんがくれた手紙を読み返した。

彼の言葉をもう一度心に注ぎ、家を出る。

踏み出す足は、少しだけ躊躇を覚えていた。

それでも、力強く足を踏み出した。

待ち合わせの場所は、町中にある公園だった。

そこのブランコに身を揺られながら、僕はその人を待つ。

少しだけ心臓が高鳴っている。だけど、どこか心地がいい。

僕は待ちながら、初めてその人のことを、思い出していた。

いつも可愛く、世話好きで、僕と一緒にいた。おしとやかだけど、おてんばなところもある。

しっかりしているかと思えば泣きべそだったり、表情豊かな人……

「……のび太さん?」

その人は……

 

「……しずかちゃん……」

駆け寄る彼女に、僕は立って迎えた。

「……ゴメンね、急に呼び出したりして……」

「ううん。ちょうど仕事が終わったからいいの」

僕達は、ブランコに座っていた。

風は肌寒いけど、それでも気にならない。

「……それで、どうしたの?」

しずかちゃんは、俯きながら僕に訊ねて来た。

「……うん、この前のことなんだけど……」

「この前……雪山のこと?」

「そう、それ。……実はね、あれ、僕じゃないんだよ」

「……え?」

突拍子もないことを言ったからか、しずかちゃんは僕の顔を注視する。

そんな彼女に、僕は続けた。

「……あれはね、僕だけど僕じゃないんだ。あれは、子供のころの僕なんだよ」

「……どういうこと?」

 

 

「子供のころ……まだ彼がいたころ、僕はキミが将来遭難することを知ったんだ。それを見た僕は、彼にお願いして、キミを助けに行ったんだ。
雪山なのにコートを着ていたのは、雪山のことをよく知らなかったから。突然姿を消したのは、タイムマシンで帰ったから。
だからあれは、今の僕じゃないんだよ」

「……う、うそ……」

しずかちゃんは、表情を硬くした。その顔を見たら、心が締め付けられた。

それでも、僕は続けた。

「……でも、子供の僕がキミに言ったことは、嘘じゃないんだよ」

――そして僕は、意を決した。

「……僕は、ずっとキミに憧れていたんだ。その気持ちは、今でも持ち続けている。キミは、僕にとって大切な人だよ」

「……のび太さん……」

二人を包む空は、更に夜の色を濃くしていく。

「――でも、僕には今、付き合ってる人がいるんだ」

「……どういうこと?」

「その人は、とても明るくて、とても元気なんだけど、時々おっちょこちょいなんだ。まるで子供の僕みたいだろ?
最近だと、物凄く寂しがり屋で、心配性なんだ」

「………」

 

「その人ね、見ていると、どこかほっとけないんだよ。――僕が、守ってあげたいって思うんだ……」

「……それって……」

 

「……うん。僕は、その人を守ってあげたい。その人と、一緒に過ごしていきたいんだ。
キミを大切に思うことに嘘はないよ。キミは、大切な友達だからね。……でも僕が、一緒に過ごしていきたい人は、その人なんだ。
――だから、キミの気持ちには応えられない。応えられないんだ……。ごめん―――」

「……ひぐ……ひぐ……」

しずかちゃんは、声を押し殺すように、涙を流していた。それが酷く心を痛めさせる。

それでも僕は、彼女の想いに応えることは出来ない。

その時、僕は公園の入り口にいる彼の姿を見つけた。

その姿を見た僕は、涙を流す彼女に声をかける。

「しずかちゃん。僕には、キミを幸せにすることは出来ないんだ。

――でもね、キミの幸せを心から願っている人がいるんだ。あそこに―――」

「……え?」

しずかちゃんは、僕が指さした方向に目をやる。そして、声を漏らした。

「……出木杉さん?」

「……しずか……」

 

 

~2時間前~

「――そっか……しずかちゃんと……」

「ああ。付き合ってたよ。最後には、こっぴどくフラれたけどね……」

そこは、街の角にあるバー。そこのカウンター席に、僕と出木杉は座っていた。

「しずかは、キミが好きなんだってよ。まったく、面白くもない話だけどね……」

ぼやくように呟くと、彼は目の前のウイスキーを飲みほした。

「……ごめん」

「なぜキミが謝るんだい?キミは、何も悪くないだろう。これはしずかの想いであって、僕が思ってるのは、単なる醜い嫉妬だけだよ」

出木杉は表情を落としたまま、そう呟く。

「……野比くん。しずかを幸せにしてやってほしい。それが、僕からの最初で最後のキミへの願いだ……」
「………」

「まったく、頭に来る話だよ。こっちは昔からの想いを、ようやく叶えたと思ったのにな……キミに、それを引き継ぐなんて……」

「出木杉……」

 

出木杉は、絞り出すようにそう話した。彼がそんなことを言ったのは、初めてのことだった。

彼は、心の底からしずかちゃんの幸せを願っていた。

恥を捨て、恋敵の僕に願ってまで、彼女の幸せを叶えようとした。

――それでも、僕はその願いを叶えることは出来ない。

「……出木杉、それは、無理なんだよ……」

「……何だって?」

「僕には今、付き合っている人がいる。……その人が、僕にとって、大切な人なんだ」

「―――――ッ!!」

出木杉は激高し、とっさに僕の胸ぐらを掴み上げた。

「……キミは!!何を言ってるんだ!!ずっと憧れてたんだろ!?ずっと好きだったんだろ!?
しずかも、ずっとキミを待ってたんだ!!キミが、想いを口にするのを……ずっと……!!」

出木杉の言葉は、心からの絶叫のように思えた。涙を目いっぱいに溜め、想いの全てを僕にぶつけていた。

そんな彼の瞳を、僕はを見続けた。

 

 

 

「……出木杉……でも、僕には出来ないんだよ。――出来ないんだ」

「………!!」

「………」

「……チッ!」

出木杉は、僕の目を睨み付けた後、投げ捨てるように手を離した。そして、荒々しくウイスキーをコップに注ぎ、飲み干す。

「……出木杉……」

「……不愉快だ……キミは本当に、不愉快だよ……!!」

「……出木杉、今から2時間後、街中の公園に来てほしい」

「……どうして僕が……」

「そこに行けば、全てが分かるさ。とにかく、来てほしい……」

「……分かったよ。行けば、いいんだろ―――」

「―――しずかちゃん。僕は、キミを幸せにすることは出来ないんだよ」

「………」

 

 

 

「でもね、そこに立っている彼は違う。自分の想いを断ち切ってまで……歯を食い縛ってまで、ただひたすらにキミの幸せを願ってるんだ。
――彼ならきっと、キミを幸せにしてくれると思う。……それは、僕が保証するさ」

「……のび太さん……」

一度彼女に微笑みを見せた後、僕は公園の出入り口に向かった。

そして、彼の横を通り過ぎる直前、脚を止める。

「……ということだ、出木杉……」

「これから、キミが手を差し出す番だ。僕に出来ないことを、キミがするんだ」

「……相変わらず、不愉快だね、キミは……」

「すまないな。――しずかちゃんを、幸せにしてやってほしい。それが僕からの、最初で最後のキミへの願いだ……」

「……そんなもの、言われるまでもないさ……」

「……ああ。頼んだよ……」

そして僕は、公園を立ち去る。少しだけ離れた後、一度公園を振り返ってみた。

そこには、仄かに周囲を照らす街灯の下、ブランコに座る彼女と、彼女を抱き締める彼の姿があった。

……これから、二人の物語が始まる。

そこに、僕の席はない。

二人の幸せを願って、僕は公園から離れていった。

翌日の仕事は、かなり早めに終わった。

咲子さんは舞さんと食事に行くらしく、誘われたが断った。

姉妹水入らずの食事会に、僕が言ってはアレだろうし。

家に帰ったころは、空は黄昏時だった。

茜空を見上げた後、アパートの階段を上る。

――ふと、僕の部屋の前に、何かが立っているのを見つけた。

「あれは……」

 

 

 

少し早歩きに、その場所へ向かう。

そこにいたのは、ペットボトルくらいの大きさのロボットだった。

服装は執事のような恰好をしている。しかし全身かなりボロボロで、ところどころ錆びていた。

そのロボットは、僕が目の前に立ったところで、深々とお辞儀をした。

「……のび太さん。待っておりました……」

「……僕を?」

「はい。あなたに、お話があります。――私の主人、ドラえもん様の件です……」

「―――ッ!?ドラえもん!?」

ロボットは、静かに頷いた。

「それでですが、差支えなければ、少々お時間をよろしいでしょうか……」

「……うん」

ついに真相が明らかに(ゴクリ)

ロボットに案内されたのは、僕と咲子さんが来た、高台にある公園だった。

周囲に人の姿はない。いるのは僕と、ロボットだけだった。

ロボットは僕に正対し、話を始めた。

「……このようなところまで連れて来たことを、深くお詫びします」

「それはいいんだ。……それより……」

 

 

「はい。……もうお気づきかもしれませんが、私は、ドラえもん様が取り出した道具なのです」

「やっぱり……」

「今より10年前、家にいたドラえもん様に、とある通知が届きました」

「……通知?」

「はい。……ドラえもん様の時代で制定された、異時空軸接触禁止法の件です」

「……異時空軸、接触禁止法……」

「増加する時間犯罪を抑止するために制定された法律です。その法律により、特別の許可を得た人物以外の、タイムトラベルは全面的に禁止されました。
――当然、ドラえもん様についても例外ではございませんでした」

「そ、それじゃ……」

「そうです。ドラえもん様は、未来に帰られたのです」

「……で、でも、どうして忽然と……」

「その法律は、過去、未来との接触の一切を禁止する法律。罰則者には、重い刑罰が科せられます。
接触の一切とは、文字通り全てのこと……写真も、痕跡も、そして、記憶さえも残すことは許されません」

「で、でも!僕は……僕達は、覚えているよ!?彼のこと……ドラえもんのことを!!」

「はい。……それは、特例的に残すことが許されたからです」

「……特例的?」

 

「はい。ドラえもん様は、これまで幾度となく、時間犯罪を防ぎ、世界の危機を救ってきました。その功績が考慮され、一切の痕跡を消す中で、関係者の記憶を残すことが許されました。
ですから、写真等は全て処分しながら、のび太さん達の心には、ドラえもん様が残り続けていたのです……」

「………」

「――そして、特例的に認められたことは、もう一つあります」

「……え?もう一つ?」

「……それは、ひみつ道具を、一つだけこの時代に残すことです」

「じゃ、じゃあ……」

「そうです。そこで残されたのが、この私です」

「………」

「私は、執事ロボット。主人の依頼を、厳正に守るロボットです」

「ドラえもん様は、悩みました。何をこの時代に残すべきか。何を残せば、のび太さんの助けになるか……残されたわずかな時間の中で、ドラえもん様が選ばれたのが、この私です。
そしてドラえもん様は、私に、手紙を託されました。そして、こう言いました。
『この手紙のそれぞれが、のび太くんが一番必要だと判断された時に、届けてほしい』と……」

「じゃ、じゃあ……これまで手紙を届けていたのは……」

「はい。私です。手紙は私に備え付けられた四次元バッグに収納され、色褪せることなく保管され続けていました」
「……そしてこれが、ドラえもん様からの最後の手紙です……」

そしてロボットは、僕に一通の手紙を差し出してきた。

 

 

さすがドラえもん

―――――――――――――――――

のび太くんへ

この手紙を読んでいるということは、執事ロボットから全部聞いたと思う。

ごめんね、のび太くん。黙って帰ってしまって。

本当は、僕もずっと一緒にいたかったんだけど、だめなんだ。

大した道具を残せなくてごめんね。

ジャイアンに虐められても、仕返しできなくてごめん。

スネ夫にバカにされても、見返すことができなくてごめん。

しずかちゃんに嫌われても、機嫌を戻させることもできなくてごめん。

それでもキミなら、きっと、色んなことを乗り越えてこれたと信じてるよ。

だって僕は、誰よりもキミのことを知っているから。

大切な、友達だから。

キミといた時間は、僕にとって、すごく幸せで、すごく大切な時間だったよ。

僕は、キミと出会えて、本当に良かった。キミと友達になれて、本当に良かったよ。

この気持ちは、キミとの思い出は、未来に帰っても忘れないよ。

ずーっと、僕の宝物だ。

最後になるけど、のび太くん、どうか、元気でね。どうか、幸せにね。

僕は、未来から、ずっとキミを応援してるからね。

それを、忘れないでね。

――――――――――――――――――――――――――

 

 

「――ど、ドラえもん……!!」

ドラえもんの手紙を読み終えた僕は、その場で蹲った。彼の涙で滲んだ手紙を握り締めて、僕もまた涙が止まらなくなった。

「……そんなことない……そんなことないよ……!!
キミが残したものは、これまでのどの道具よりも素晴らしいものだった!!……僕を……助けてくれた……!!
キミの手紙があったから……僕は……頑張ることが出来たんだよ……!!」

ドラえもんの記憶が、頭の中に甦る。

一緒に笑ったこと、泣いたこと、びっくりしたこと、怖がったこと、遊びに行ったこと、ご飯を食べたこと、ジャイアンの歌を聞いたこと、ケンカしたこと……

その全てが僕を包み、その全てが、止めどなく涙を流させる。

とても暖かい涙……とても寂しい涙……そして、止めどない感謝の涙……それが全て入り混じり、僕は泣き続けた。
「……ドラえもん……ありがとう……ドラえもん……!!」

遥か遠くにいる彼に向けて、必死に声を出す。震えながらも、うまく出なくても、必死に言い続けた。

彼への感謝を。そして、別れを。

 

 

ロボットが見守る中、黄昏が空を染める中、僕はドラえもんに、最後の別れをした。

「……ありがとう。全部を話してくれて……」

ひとしきり泣いた後、僕はロボットに感謝を告げた。

「……いいえ。私は、主人の依頼を果たしただけです。――これでようやく、私も役目を終えれます……」

そう言うと、ロボットは足元から光に変わり始めた。

「……キミも、消えちゃうのかい?」

「はい。役目を終えた道具は、そのまま未来へ転送されます。……私も、あるべきところへ帰る時が来ました」

光は徐々に体を包み始める。ぼろぼろの彼の体は、足元から消え始めた。

「……最後にさ、キミの主人に伝言を頼んでいいかい?」

「……はい。主人のためなら……」

「ありがとう。……ドラえもんに、伝えておいてよ。
――“僕も、キミのことをずっと忘れない。キミはずっと、僕の大切な友達だ”って……」

「……かしこまりました。では……」

最後に深々とお辞儀をして、ロボットは光と共に消えた。

 

 

彼の光は空へと昇り、すっかり日が落ちて暗くなった空に、一つの橋をかける。

――僕とドラえもんを繋ぐ、最後の橋を……

僕は、その光が完全に消えるまで、見送った。

光が消えた空には、星が輝く。

その一つ一つが揺れるように光を放ち、まるで、僕に別れを言っているようだった。

そして僕は、最後に告げる。

「……ばいばい。ドラえもん……」

それから僕は、家に帰った。

家の前に付くと、入り口に誰かがいることに気が付いた。

「あれは……」

その人は僕に気が付くなり、小走りで駆け寄って来た。

「……のび太くん、遅かったね」

「咲子さん……」

咲子さんは、笑顔で僕を出迎えた。

その手には、お弁当があった。

「……それは?」

 

 

「え?ああ、これね。これはのび太くんの分。結局家でご飯作っちゃって、残り物で悪いけどおすそ分け」

溢れるような笑顔を見せる彼女。その姿が、とても愛しく思えた。

そして気が付けば、僕は彼女の体を抱き締めていた。

「――ッ!?ちょ、ちょっとのび太くん――!?」

「……ありがとう咲子さん……僕は、キミとずっと一緒にいたい……」

「え?え?」

「少しだけ、このままでいさせてほしい。お願い……」

「……う、うん……」

ドラえもん……僕は、ダメな奴だよ。仕事も怒られてばっかりだし、最後の最後まで優柔不断だったし……

でも、この人は、咲子さんは守っていきたいんだ。こんな僕でも、そのくらいはしたいんだよ。

僕なら出来るよね、ドラえもん……

満点の星の下に、僕らは立っていた。

外の空気は冷たい。だけど、僕らの体は暖かかった。

とても、暖かかった―――

~数年後~

 

「―――のび太!!咲子の準備が終わったぞ!!」

けたたましい叫び声を上げながら、舞さんは部屋に入って来た。

「ちょ、ちょっとちょっと!ノックぐらいしてくださいよ!!」

「細かいことを気にしない!!……へえ……似合ってるじゃないか……」

舞さんは、僕のタキシード姿をじろじろと眺めながらそう言った。

「……馬子にも衣装とは、よく言ったものだ」

「ありがとうございます。……それより舞さん、その手に持っているビールは何ですか?」

「あ?ああ、これか……飲む前の、景気付けの一杯ってところだ」

「いやもう飲んでるじゃないですか……。
ホント、酒の飲み過ぎはよくないですよ?……そんなんだから、また彼氏に逃げられ―――」

――ボクッ

言い終わる前に、顔面に舞さんの拳が突き刺さる。

「……殴るぞのび太」

「……も、もう殴ってます、舞さん……」

「……まったく……式の前に、顔面に青あざでも出来たらどうするんだ……」

「いやいや、殴ったのは舞さんであって……」

「――ほらほら!無駄話をしてる暇があるなら、とっとと行くぞ!」

舞さんは話を終える前にとっとと部屋を出ていった。

……これは、逃亡したか……

何はともあれ、僕は咲子さんの元へ向かう。

今日は、僕らの結婚式だ―――

「……咲子さん?」

 

ドアを開くと、目の前にはウエディングドレスを着た彼女がいた。

「あ、のび太くん……」

ドレス姿の彼女は、とても綺麗だった。なんだか、感無量。

「……どうかなのび太くん。変じゃない?」

彼女は少し照れ臭そうにそう訊ねる。

「ううん!全然変じゃないよ!……本当に、綺麗だよ……」

「あ、ありがとう……」

「……」

僕達は向かい合い、互いに顔を隠すように表情を伏せる。なんだか、すごく恥ずかしい……

「――ああ、お二人さん?そろそろ行かないと始まるぞ?」

そんな中、舞さんの呆れるような声が響いた。

「え!?あ、うん!……のび太くん……」

「うん。行こうか……」

僕らは手を繋ぎ、部屋を出た。

そして、みんなが待つ式場へと向かって行った。

「―――おめでとう!!」

「幸せになれよ!!」

 

晴れ渡る空の下、式を終えた僕らを、みんなが出迎えた。

紙吹雪が舞い、祝福の声と拍手が僕らを包む。

僕らは照れながらも、頭を下げて今日という日を迎えれたことを、みんなに感謝した。

―――ふと、僕は、式場の入り口に立つ何かを見つけた。

みんなが僕らに注目する中、入り口で、満面の笑みを浮かべて僕らを見守る、青いその姿―――

(あ――――)

すると祝福していた人が、一瞬彼の姿を隠した。そして再び入り口が見えた時、そこには、誰もいなかった。

(……あれは……)

「……?のび太くん、どうかしたの?」

 

咲子さんは、僕の顔を覗き込む。彼女の顔を見て、僕はもう一度笑みを浮かべた。

「………いや、なんでもないよ。なんでも……」

「……?」

不思議そうな顔をする彼女だったが、僕が笑うと、すぐに笑みを取り戻した。

(……見に、来てくれたんだね……。僕、幸せになるよ―――)

空を見上げながら、彼に言葉を送る。

澄み切った空は、まるで彼のように、どこまでも青かった―――――

終わり