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入学試験の難易度全国ナンバー1の灘高、日本で一番勉強ができた子達の「その後」・・・

 

 

入学試験の難易度は全国ナンバー1、それでいて校風は自由。有名なのに実態はあまり知られていない。灘高とは一体どんな学校なのか。卒業生にしか書けない、リアルなレポートをお届けする。

互いを「天才」と呼び合う

「東大入試の、最後の科目が始まる前の休憩時間、隣の隣の席にいた灘の同級生に『オレ、最後の科目0点でも合格やわ』と言ったら、同級生は『スゴイなー。ま、オレもあと10点やけどな』と答えた。オレらの間にいた他校のヤツは必死で参考書読んでたけど、合格発表見たら、そいつはやっぱり落ちてた」

ある灘高OBが朗らかに語る。彼にとって、東大受験は「朝起きて歯磨きをする」のと同じくらい簡単なことで、「落ちる可能性はゼロ」だった。灘高生ふたりに挟まれた気の毒な受験生は、彼らの会話をどんな思いで聞いていたのだろうか。

灘高等学校。今年も東大に103人、京大に35人の合格者を送り込んだ、超有名進学校だ。所在地は兵庫県神戸市。筆者は'93年に同灘高を卒業した。

東大合格者の数では開成高校(東京)に後れをとるが、1学年に220人の少数精鋭であることを加味すると(開成は400人)、おそらく「日本一頭の良い学校」と言えるだろう。

確かに灘高生は賢い。私も経験的にそう思う。しかし、冒頭のエピソードのような、とんでもない言動を取ることがある。かく言う私も、こんな体験をした。8年前、私の結婚式でのことだ。灘高時代の恩師がしてくれた祝福のスピーチのなかに、こんな一節があった。

「彼は高校3年生の時、人生に悩み、東大文学部に進んで哲学を勉強したいと言い出しました。それは、灘高では大変、珍しいケースなんです」

東大文系に入った灘高生のほとんどは法学部か経済学部に進む。文学部は各学年に2~3人しかいない。尊敬する恩師でもあり、私は「うんうん、そうだった。いいスピーチだなあ」と拝聴していた。ところが後日、結婚式に出席してくれた会社の先輩にこう言われた。

「東大文学部が珍しくて法学部が普通、とか人前で言う時点で、なんかズレてんだよね、灘高は」確かに言われてみれば、「あえて東大文学部に進んだのです」なんて強調する必要は、普通はない。

こんなこともあった。今回の取材のため、私は友人と電話で話していた。

「灘で『こいつは天才やな』って思ったのは誰?」

友人「お前だって、国語の天才やったやん」私「いや、天才といえば数学のできるヤツやろ」

それを後ろで聞いていた妻(都立高校出身)が、電話を切った私に言った。「灘の人って、お互いのこと平気で『天才』とか呼び合うから、キモいよね」

我々は、世間の常識からちょっとズレているのかもしれない・・・。社会人生活も10年を超えると、そう思うことが増えてきた。一方で、「灘高卒」という誇りが自分のどこかにあることも、消せない事実だ。

今回、同級生を中心に先輩、後輩に幅広く会い、改めて「灘高生とは何者か」を研究してみた。すべて体験と肉声に基づく、かつてない「灘高レポート」である(以降、断りのないカギカッコは卒業生の発言)。

「美しい」解答を見つけたい

灘校は中高一貫校だ。180人が中学から入り、高校から40人が新たに加わる。ではそもそも、どんな子供が集まるのか。

「小学生の頃?まあ、ハッキリ言って神童やな。公立やったから、周りのヤツに『お前らが勉強できひんせいで、オレが退屈な授業受けなあかんやんけ!』と文句言ってた。もちろん嫌われてた(笑)」

もちろん、皆が皆こんなに感じ悪いわけではない。ただ、話を聞いた卒業生全員が、自分は「神童」だったと認めた。もともとできる子が、小学校4年生から進学塾に行く。老舗の浜学園と、浜からスピンアウトした希(のぞみ)学園のどちらかに、合格者の7割近くが通っている。実はこれが、けっこう重要なポイントである。

たとえば今年(2010年)であれば、浜学園から82名が灘中に合格している。新入生の半分近くが顔見知り。”内部進学”のようなものだ。そして、その中の多くと東大まで一緒に進む。小4から大学卒業まで、実に13年間、同じ環境。

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この「均質性」が、灘高を語る上での一つのキーワードになる。それについては、後で詳述する。

関西の進学塾で鍛えられた”神童”たちが集結するなかで、数名、毛色の違う少年たちがいる。北は北海道、南は沖縄からはるばるやってくる新入生だ。彼らは学校近くの民家で下宿生活を送る。静岡県の焼津市から、麻布中(東京)を蹴って中に”遠距離入学”したMさんが振り返る。

「小5から毎週末、東京の(進学塾の)四谷大塚に新幹線で通い、平日は週2回、静岡市から家庭教師に来てもらってました。麻布より、を決めたのは母親。『灘は日本一の学校』という印象があったようです」

実は灘中に入り、Mさんは大きな驚きと失望を覚えることになる。

「なんで地元民ばっかりなんだ、話が違う!と思いました。全国から最高の秀才が集まる学校をイメージしてたから。その上、標準語を喋ると『お前、訛(なま)っとんな~』とか言われて。『いやいや、訛ってるのはキミたちだから』と思ってた」

ここも重要ポイントである。灘は、しょせん”ローカルな学校”なのだ。

それはそうだろう。生徒のほとんどは電車で通える範囲に住んでいる。関西だから国会議員も中央官僚もいないし、大企業の本社や国際機関の本部も少ない。ハッキリ言って、父親の職業は東京の名門校に比べると見劣りする。ちなみに私の父も市役所勤務だった。

灘中では2年弱で中学校の課程を終え、中3から高校の教科書を使う。なんといっても、数学のレベルが高い。高1時に数学オリンピック日本大会で入賞した、郡山幸雄(35歳)が語る。

「小1から兄貴のマネをして公文に通い始めた。ゲーム感覚で問題を解くのが楽しくて、小4くらいで方程式とか因数分解をやってたと思う。灘中入試の算数も満点に近かった」

郡山は現在、カルロス・ゴーンも出たフランスの理工系大学のトップ、エコール・ポリテクニークで経済学部の助教を務めている。

灘の数学の名物は、教室の前と後ろにある黒板で、生徒が与えられた問題を解く「演習」の時間だ。黒板の前に立つ時、郡山はいつもこう考えていた。

「模範解答である必要はないし、最短距離である必要もない。僕は、解き方のなかに『物語』を込めたいんです。読んで面白い小説とそうでない小説があるように、解き方にも『面白い』と思わせるものがある。自分がどんな考えの道筋を辿ったかを、皆に示すのが喜びでした」

私が鮮烈に覚えている光景がある。郡山が書いた解答を数学の教師がじっと見つめる。そして、一呼吸置いて、こう叫ぶのだ。

「美しい!」

教室から「おお―!」というどよめきが起こる。ある種宗教的な、お約束の行事だった。当時はそれが当たり前だと思っていた。しかし、「下流志向」が問題視されている公立の学校では、ありえない光景だろう。

勉強(特に数学)ができる生徒のことを、皆が素直にリスペクトする。これもまた「思春期の常識」からはズレているかもしれないが、けっして悪いことではないと思う。郡山は、「の先生は数学の技術というよりは、『数学を楽しもうとする姿勢』を教えてくれた」と語る。

何せ、女に慣れてない

とはいえ、郡山のような校生は実は多数派ではない。高校受験がないこともあるが、灘校生のほとんどは、高3になるまでテスト前以外は勉強をしない。では何をするか。部活と趣味と、女である。

受験業界では知られた話だが、灘校生は「ガリ勉」ではない。また、「ガリ勉と思われたくない」と強く思っている。そして、校則も制服もなく、校風はいたって自由である。先生も生徒の自主性を大切にし、生活指導に血道をあげるような人はいない。

学年の半分が運動部に入部し、残りはアニメやアイドル、鉄道やアマチュア無線、そして麻雀や囲碁将棋といった趣味に没入する。ごくわずか、1割程度が男女交際にいそしむ。

ふだんは目立たない「オタク」たちの晴れ舞台が、年に一度発行される「灘校生徒会誌」だ。「アイドルランキングベスト500」などというタイトルで、異常な思い入れを込めて健筆をふるう。運動部系の生徒は「こいつらほんまキモいなあ」と言いながらも、実はちょっと楽しんで読んでいる。

そういえば、株式投資にのめり込んでいる同級生もいた。授業中、ラジオでこっそり株価情報を仕入れ、チャイムが鳴った瞬間に公衆電話にダッシュして、株取引をしていた。とにかく、銘々が好きなことをしているのだ。

これは自信を持って言えるが、灘にはイジメがほとんどない。少なくとも私の学年にはなかった。運動部員もオタクも遊び人も、それぞれ気の合う仲間と過ごし、クラスの「中心」となる生徒もいない。

それ自体は悪いことではないが、この気質が、後で述べる「リーダー意識、マネジメント能力の欠如」につながるのかもしれない。

先ほど、男女交際するのは1割と書いた。これは一般的な同世代と比べて圧倒的に少ないだろう。ある卒業生が、こんな回想をする。

「高3の時、同級生から深刻な顔で『女ってどんなプレゼントを喜ぶんかな』と相談された。相手はどんな人、と聞くと『三宮(神戸の繁華街)のクリスタルマジックの娘(コ)』と答えた。それ、ヘルス嬢やん!」

何せ、女には慣れていない。自慢じゃないが、私自身も中高6年間で母親以外の女性と喋ったのは片手で数えるほどだ。そのため同級生たちの間には、

「予備校で女のコに話しかける時、緊張しすぎてちょっとチビッた」
「保健室の50過ぎのオバサンを好きになった」
「店頭にある内田有紀の等身大立て看板を盗み、股間の部分をくりぬいた」

など、哀しいエピソードが山ほどある。中には、

「オナニーを数週間ガマンして満員電車に乗り、女性の尻に股間を密着させ、パンツの中で射精した」という犯罪スレスレの剛の者(?)もいた。

卒業生の4分の1が医者

そうして楽しく学生生活を過ごす灘高生も、高3の夏が近づくと、いよいよ受験モードに突入する。さすがというか、高2まで模試の合格予想でE判定(合格率20%以下)だった生徒たちもみるみる成績を伸ばし、東大や京大、国立大医学部に入っていく。ある種、壮観とも言える光景だった。

落ちた生徒も、ほとんどは一浪で志望校に合格するが、そうでない生徒がごくわずか、学年に数人存在する。普段マスコミでは語られない、そんな生徒に光を当ててみよう。

「みんな行くし、普通にしてれば東大に行けるって思ってました」

勉強以外に何ができる?続きはコチラ↓↓

 

そう語るのはWさん。ではあまり勉強せず、成績は下位だったが、「なんとかなるやろ」と心配はしていなかった。小学生の時、IQが160を超えていたこともあり、「やればできる」と思い続けていた。

「そしたらセンター試験の結果、受かるどころか受けるのもムリ、とわかった。浪人が決まってもまだ、『1年ちゃんとやれば行けるやろ』と思ってました。もっと言えば今でも、1年くらい真剣にやれば東大に行けたと思っています」

結局、Wさんは2浪の末関西学院大学に進む。

「小学校時代は、灘に行きたくて死ぬほど勉強しました。でも、大学受験にはそこまでの情熱は持てなかったですね。1年頑張り抜くこともできなかった」

もう一人、2浪で成蹊大学に入ったYさん。

「中高時代は、部活と競馬に明け暮れました。楽しくて勉強する気にはなれなかったですね。僕は成蹊大学に行ってすごく良かったと思っています。灘は勉強だけのトップだけど、成蹊には『本当の上流階級』の同級生たちがいた。大企業の社長の息子とか、政治家の娘とか。東大に行った同級生より、社会の広さを知ることができたと思います」

Yさんは卒業後、大手電機メーカーに就職、たまに「キミ、灘高なんだって、スゴイね!」と言われながら、楽しくほどほどに仕事をしている。

Yさんのケースは、実は非常に示唆に富んでいる。大学生、そして社会人になった時、灘高生にのしかかるのが、前述した「均質性」の問題だ。灘高文系の卒業生の多くは弁護士か官僚になる。また驚くべきことに、卒業生全体のなんと4分の1が、医者になる。

灘中高→東大法学部→高級官僚(人によっては中学の前に進学塾)という人生を想像してほしい。周囲は概ね、自分と同じ境遇の人間たちだ。逆に言えば、そうした境遇しか知らずに育つことになる。

「外では出さないようにしているが、役所の中では、『俺たちは特別だ』という意識で仕事をしている」(官僚になった卒業生)

そういえば、阪神タイガースを手中に収めようとして、ファンと関西財界の猛反発を買った村上世彰(よしあき)氏も灘高卒の元官僚だ。

「僕は阪神電車に乗って6年間、中高に通った。とても愛着がある」

と語ったが、受け入れられることはなかった。おそらく極めて優秀な人物で、先進的な人々からは絶賛されたが、「大衆の心をつかむ」力はなかった。ある意味、灘高生の限界だったのかもしれない。

一方の医者。もちろん、使命感や倫理観の強い人もいるだろう。だが、灘高の医学部志望者のなかに、「とりあえず勉強ができるから医学部に行く」という発想の生徒は、けっして少なくなかったのは事実だ。

灘高から京大医学部に進み、現在は神戸市内で眼科医院を開業する西村衛が言う。

「灘卒のダメな医者は、けっこうな数いると思います。患者さんの目が見られず、顔をそむけたまま診察するような人もいました。臨床医には絶対にコミュニケーション能力が必要。テストの点数が良いから医者、という考えはやめたほうがいいと思います」

勉強以外に何ができるんやろ

とはいえ今も、灘高生の医学部志望は増え続けている。なぜ医者なのか。背景には「親の刷り込み」もあるようだ。

「母親は、『せっかくなれるんだから、お医者さんになったらいいわよ』と昔から言っていた。父親はサラリーマンで母は主婦、両親が天下国家を論じる姿を見たことはないし、東京で一旗揚げろと言われたこともない。母親が医者に対して持っているイメージは、お金が儲かる上に尊敬される、というものでしょう」(医者になった卒業生)

ここにも、灘の”ローカル色”が微妙に影を落としているのかもしれない。では、企業に勤めた場合はどうか。これは我が身を振り返っても思うが、灘高生はおしなべて呑気で平和主義で、生き馬の目を抜く出世競争に向かない。

先ほどイジメがないという話をしたが、基本的に他人のやることには「不干渉」を貫く。他人は他人、オレはオレ。従って、リーダーやマネジャーとしての資質に欠けている人間も多い。

これまで挙げたのは、あくまで灘高生の「平均的な特徴」である。どんな業界であれ、リーダーシップとチャレンジ精神を発揮している卒業生はいる。東大法学部を卒業後、ネットゲームなどを扱う「芸者東京エンターテインメント」を立ち上げた田中泰生もその一人だ。

「明日をも知れない仕事ですが、『自分はプレーヤーとして戦っている』というやりがいを感じます。灘の卒業生を見ていて、もったいないな、と思うことは正直ある。灘高生の発想の基本は『ミドルリスクミドルリターン』。常に均質な世界にいて、社会人になってもそこから出ようとしない人が多い。みんなスゴイ能力を持っているのに、『甲子園球児が大学で野球サークルに入る』といったイメージでしょうか」

極めて優秀な子供たちが集まり、均質かつ関西ローカルの環境で6年間のほほんと過ごし、社会に出てからハッと気がつく。

「俺って、勉強以外に何ができるんやろ・・・」

そこから奮起できるかどうかは、まさしく本人の頑張り次第。灘高に入ったからといって幸せな人生が約束されているわけではもちろんない。ただ一つだけ確かなことがある。すべての灘高卒業生は、その後の成功不成功にかかわらず、

「俺は灘高生だった」

という思い出を、心のどこかに大切に抱いて生きている。

 

引用元:http://gendai.ismedia.jp/articles/-/545