今回紹介する映画:『サマリア』『最低。』
これを読んでいるあなたは、自分がなぜこの場所にいて、この仕事をし、この環境の中で生きているのか、知っていますか?
私は、インタビューや面接など様々な場で、「なぜこの仕事をしているのですか?」という質問を何度も何度も頂いているのですが、未だにうまく答えられたと思えたことがありません。
先日、ありがたいことにミスiD 2018を受賞したのですが、たとえばミスiDに挑戦する過程で答える理由と、アダルトメディアで答える理由と、友達に聞かれて答える理由と、自分の中にひっそり隠し持っている理由は、それぞれがまた全然違うものだったりします。
それは、どれかが嘘でどれかが本当ということではなく、どれもがそれぞれ本当のことだと思っています。
この連載を何度か読んでくださっているみなさんには周知の事実かと思いますが、私は現役のAV女優です。
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今までこの連載において、あまり自分の仕事について多くを語りすぎないようにしよう、と試みてはまいりましたが、このようなご質問をずっといただいていたので、今回は少しばかり私のお話をしようと思います。
年の暮れ、結局自分の中にある愛情の種のようなものを、非力ながら撒き続けるようなことしか一年やっていなかったな。と自認した、このしらじらしく美しい季節にのせて。
戸田真琴さんがAV女優であるということがなんとなく心に引っ掛かっています。見た目の可愛らしさ、コラムやブログで物事を語る精度は素晴らしいと思うのに、「沢山の職業がある中で何故あえてAV女優を選択したんだろう?」と。
「AV女優を推そうとしている女の私」が恥ずかしく思えてしまうのかも知れません。この仕事を選んだ理由を聞いてみたいです。
理由はだいたい100個くらい
前述した通り、今私がここにいる理由は大げさに言えばきっとだいたい100個くらいはあって、一体どれを選んで答えるべきなのか、いつもいつもわかりません。
好きな人の好きなところを問われても、ありすぎて答えられない、こんなに答えられないなんてもう「理由なんてない」というほかないんじゃないか?と思ってしまうようなパターンってあると思いますが、もはや私の「理由」もそういった具合で。
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高校生くらいの頃から、なんとなく「いつかAV女優になるんだろうな」と、思っていたんです。本当になんとなく。
人はほんとうに独りずつで、そうだからこそ素晴らしくて、皆それぞれ誰にも覗かれることのないサンクチュアリを持って生まれ落ちてくると信じているので、過剰に理解を求めるようなことは望みません。なので、いざというとき、どんなふうに自分の信念の有様を示したらいいのか解らない。言葉にならない何かを、それでも無力な言葉でのみ伝えようとすることが許されるとき、ほんとうに心強いのが「共通の体験」です。
このコラムでいつも好きな映画の力を借りるのは、同じ映画を見て、その中に流れる時間を共有し、その「共有した時間」の中で昔からの友人のようにあなたと親しく話してみたいという気持ちからです。
同じ景色を歩いたような二人なら、普段伝わりにくいことだって、説明よりも肌感覚で少しは解るかもしれない。だから今回は、AVに出ている時の私が共感した、ある映画を紹介したいと思います。
キム・ギドク監督の『サマリア』は、2004年公開の韓国映画です。ネットで知り合った男性たちと援助交際をしているジェヨンと、その親友のヨジン。二人の女子高生の話で始まります。
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素性も知れない男たちとチャットで言葉を交わし、会いに行く。ヨジンはジェヨンを深く想っているため、彼女のその行動に嫌悪感を隠しきれないながらも、援助交際のための顧客情報の管理を手伝います。
ジェヨンは、建前上「ヨジンとヨーロッパ旅行に行くため」と言って援助交際でお金を貯めますが、相手の男性たちとはセックスだけでなく心のコミュニケーションを求めています。身体の純潔よりもジェヨンの美しい心の純潔が汚されることをさらに嫌悪するヨジンは、相手の男たちはクソ野郎よ、と蔑みます。
目隠しされた子供時代
みなさんにとって、セックスやそれに付随する行為を始めて身近に感じたのはいつのことでしたか。
私は決して厳粛な家庭というわけではありませんでしたが(むしろ、標準よりすこし金銭的には貧しい家庭でした)両親から異性との関わりや性的なことに対してとても厳重に制限されていました。
中学や高校に入って、性教育を終え、周りの友達が付き合ったり色っぽいことをし始めるようになった頃も、お茶の間のテレビドラマのキスシーンさえチャンネルを変えられるので見たこともなく、友達と遊びに行くというと必ず「男の子じゃないでしょうね」と聞かれ、誰にも見せないからブラジャーは必要がないと言われ、高校を卒業して一人暮らしをするまでほとんど子供用の簡素な下着を着ていました。
……今こうして思い返すと、変だと思うことがたくさんあるのですが、「子供に見せたくないことは目隠ししよう」という思想だったのでしょうし、私という子供がいつ迄たっても両親にとって「判断のつかない子供」という認識であっただけのことなんだろうな、と思います。
ともあれ、そうして育てられたので年頃になってもそういったことを見聞きしたり、ましてや行うなんて「怒られるから絶対にダメなこと」だと思い、当然ながら周りのみんなの等身大の会話にも入れないことが多くなりました。
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男の子と気が合って仲良くなったりしても、付き合う・付き合わないの話になると「その先にはスキンシップがあって、男の子と親しくすると怒られる」という認識から、恋人になるという壁はとても高く高く保っていなければいけないと思うようになりました。娯楽や愛情表現のためのセックスというものを、肯定するという価値観が育っていなかったんです。
「男はみんな、セックスのとき赤ちゃんになるのよ」
そして、色恋沙汰も下ネタの類も知らぬまま大人と呼ばれる年齢になりました。
「インドの娼婦バスミルダは、セックスをした相手をみんな仏教徒にしていくの。きっと母性愛で包んで幸せなセックスをしたの。男の人はみんな、セックスのとき赤ちゃんになるのよ」
『サマリア』第1章「バスミルダ」の中で、ジェヨンは美しく笑いながらそう言います。
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私はなんだか、このときのジェヨンと、それを悲しみと苛立ちのなか見つめるヨジンの、両方の気持ちが昔からずっと、とてもとても解る気がしました。
想像しようがない中で、それでも想像してきました。例えば思春期の男の子にとって性欲ってどういうもので、満たされない欲求がある数だけ、一瞬だけでも満たされる可能性を秘めているのだろうということ。例えばAVも風俗も一大産業として成り立っているのに、私はそれを知らないまま、知らんぷりして生きているのは本当に正しい事なのかな?と。
うそみたいな本当の話ですが、私がAVに出演して、そのなかで処女喪失をしようとした理由のひとつがこれで、たぶん、普通にさみしかったのだと思います。エッチな話も一緒にしてみたかったし、セックスってどういうものなのか知りたかったし、うまく言えないのですが、みんなと同じになりたかったんです。
誰もが簡単に薄暗い場所に陥ってしまう、繊細で不安定な思春期の中で、「君と付き合ってセックスできたら死にたい気持ちもなくなるのに」と懇願されても、どうしても心が伴わず、逃げ出してしまった日さえありました。
詳しいことは言いませんが、そういう色々な「あの日、私がもっと朗らかに裸を見せられる女の子だったら」と想像する気持ちや、極端な自己嫌悪、周りとの温度差や、頑なに守れと言われた自分自身のことがなんだか世間知らずでずっと恥ずかしかったこと。
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説明しきれないいろんな感情を、乗り越えてでも誰かと関わり合いたいと望むとき、AVデビューという戻れない道を選ぶことは私にとってとても都合がよく、しっくりくる強引な希望だったんです。
何も失わず得られるものなどない
とはいえこれは私の話で、世の中でAVデビューする女の子たちにはまたそれぞれ別の理由があります。生活のため、遊ぶためなどの金銭的理由や、好奇心、ポテンシャルを評価されてスカウトされたり、有名になりたい、テレビに出たい、といった理由まで、ほんとうに様々です。
ヨジンは、ジェヨンが心まで男性たちに消費されている気がしてそれを強く拒絶しますが、性の消費というのは実際、心とも切り離せるものではないと感じます。
何も失わずに得られるものなどなく、それは性産業だけでなくこの地上で労働を対価に生活している全ての人に言えることだと思いますが、それでも、どこか心のほんとうの奥底までは何にも消費されることのないように、祈ってしまいます。
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私自身、ひときわ消費のスピードが速いと知りながら、この世界に入りました。よほど容姿やポテンシャルに恵まれていない限り、内容もどんどんハードに、もっと見る者に訴えかけるものを出していかないとすぐ「抜けなく」なってしまうわけで、それは、生理現象への訴えを主に作られているものなので、仕方ないことでもあるのです。
それでも、このもの凄い速さで回る世界で、わけがわからなくならないように、枯れない花を胸の内にずっと隠し持っていられるようにという、そんな不毛な挑戦を、していたいと思っています。いつも、そばにいてくれる人たち全員に思うことですが、表面的に消費し合うより、何かを生み出せる私たちでいようね、と思います。
きっとずっと、性的なものとそれに付随するすべての人間の感情が、おそろしく、興味深く、そして、そんな瞬間たちと仲よくなってみたいんです。それから何ができるだろう、と、探していきたいのです。
「愚かであって欲しくない」という愛情
『サマリア』の続きで、売春を取り締まる警察に追われて窓から飛び降りたジェヨンは、死んでしまいます。第2章では、取り残されたヨジンが、ジェヨンの交わったことのある男性一人一人を訪ねることを始めます。同じようにセックスをして、話をし、そして彼らがジェヨンを買った時のお金を返していくのです。
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ジェヨンの心を知りたかったのか、それとも変わった形での復讐を試みていたのか、ジェヨンの生前の行動を肯定したかったのか、心理は定かではありませんが、そうせざるをえないとどこかで思っていたのだろうと思います。
それを見つけてしまったヨジンの父・ヨンギは、単純に「娘が何らかの理由で売春をしている」と思い、深く苦しみます。ヨジンを尾行し、売春の相手に憎しみを込め、岩を投げたり家に乱入したりを繰り返し、ついにはそのうちの一人を殺害してしまいます。
質問者さんが悩んでくださったように、「どうしてAV女優になったのか」という問いかけには、「AV女優になるなんて…」のニュアンスを含んで案じてくださる方もたくさんいらっしゃいます。そこには様々な思いがあるのだと思いますし、ヨンギの「なぜ売春なんて」という感情にも共通しているのが、そこに至る理由が伝わる前に「案じられている」というところだと思います。
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とはいえ、本当に娘の売春を目撃したお父さんの想いなど私にはとうてい解るとも思えませんが、同じ気持ちになるときは私にもあります。好きな人に愚かであって欲しくない、というのは、心からの優しさであり、愛情です。
質問者さんも、「AV女優だから」という理由で最初に否定し切らず、私のことを知ろうと思ってくださって、ほんとうにありがとうございます。
この映画では、登場人物がそれぞれ、人を愛し、正義を持っていますが、それらがひとつとして合致することはなく、皆自分に誠実に生きているのに、悲しい結末を迎え続けます。
私の人生が悲しい結末になるかならないかなんて、私には知る由もありませんし、普通に健康に「なるべく幸せになろうね」と自分にも他人にも思っていますが、私が今の仕事をしようと選択したのは、「それが私の人生においての正解だと思ったから」にほかなりません。
方法論としてはいくらでも違う道があったのかもしれませんが、一度裸にならないとできない(くらい、自分の中に押し込めていた)ことが、あまりに多かっただけの話です。こわいもの、わからないもの、をひとつひとつ無くしていって、自由になりたいんです。
AV女優も普通の女の子
私の話はおそらく特殊なほうで、たとえばもっと偏りなく「AV女優も普通の女の子だ」という事実を伝えてくれる映画が公開されました。瀬々敬久さん監督、紗倉まなさん原作の『最低。』です。
退屈な日常から抜け出そうとAVに出る決意をする主婦・美穂、親に内緒でAV女優として働く彩乃、AV女優の親を持つ女子高生・あやこを中心に、AVをめぐるひとりひとりの人生を繊細に描いた傑作です。
はじめに「AV女優だから」というカテゴリに分けることで、見逃してしまう個々の人間性というものを、この映画は丁寧に描いています。詳しい感想は以前ブログに書きましたので、気になった方はそちらも読んでいただければ嬉しいです。
たとえば紗倉まなさんは、AV女優としての出演作品がずっと売れ続けているだけでなく、文才やタレント性も評価され様々な才能を引き合いに出され紹介されることが多いのですが、いつも私が彼女の持つ唯一無二で一番の魅力だと感じるのは、その心の綺麗さです。
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小説版『最低。』が、同じ世界に生きる他者たちへの繊細な想像や洞察でいくつもの人生を描き出しているように、彼女は他人や現象を安易にカテゴライズすることなくまっさらな場所に受け止め、自分の道順できちんと思考し、受け入れます。
私は、その人が何を為したかよりも、さらにずっと、その心が美しいということの方に、絶えない賞賛と敬意を示していたいと思います。
「変なやつだな」と思ってくれていい
AV女優に限らず、この人はこうだから、と表面的な情報で決めつけてしまうと、出会いにおいてとても損をする気がします。
例えばやんちゃな大学教授の方もいれば、子育てや家事がきらいなお母さんもいる。真面目なAV女優もいれば、スケコマシの警察官だっているわけです。職業や立場の持つ言葉のイメージ通りの人が出てくるなんてむしろ少なく、あなたの人生の登場人物の中に「変わった人」がたくさんいるほど、多様性に富んだ豊かな日々を生きているということなのだと思います。
なので、好きになりたい人が受け入れられない職業についていたとしても、「変わった人だな」と笑うくらいの気持ちで、見ていればいいのだろうな、と思います。それが私なら、「へんなAV女優もいるもんだな」と。
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質問者さんが悩んでくださっている時点で愛を感じてしまったので、それから拒絶されたとしても、やっぱり「好きになろうとしてくれて嬉しいな」という想いが残ってしまうので、結局嬉しいんです。
AV女優という職業に対して拒絶や偏見があるのは当たり前で、それを無理やり正そうという気もとくにありませんが、私は最近AVをやっていてよかったなと益々思うことがあったので、最後にそれを話します。
一人でAVを見ているときに格好つけている人って多分いないのだと思います。みんな、もやもやしたり、なんかムラムラしていたり、その人の生活の中の「ちょっとだめな部分」で見ている気がするのです。……私もそうですし。
AV女優は、大体の画面越しの「初めまして」が、そんな瞬間の中で起こる職業です。そして、それはとても嬉しいな、と思うんです。私は、人の取り繕った完璧な部分を知るよりも、そうでない部分をもっと知りたいとも思っています。そういうところを愛することが、結局は本当の愛により近いもののはずだから。
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普通に生きていれば見せなくてもいい裸や、ましてや性行為を大勢に見せて、それを作品にして売ってもらうなんて普通に恥ずかしいことですし、いくら優しい人たちに「かっこいい」と言ってもらえるようになったとしてぜんぜんかっこいいことでもなんでもないと思っています。今日もかっこつかないなあ、と、毎日思っています。
だけど、それで初めて私は、「かっこよくなれない」と泣く誰かに、「かっこよくなんか生きなくていい」って言う権利をもらえた気がしています。
そのためだけに人生があるのだとしてもいいのだと、心から思うのです。
引用元:http://kai-you.net/article/48000