サンサーラ速報❗️

【涙腺崩壊・厳選!!】何度みても泣ける話 まとめ⑤

 

「ビデオテープ」

 

俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。 

それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにぐれた。 

親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。 

俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。 

そしたら・・・ 

病室のベットの上にお母さんがうつってた。 

『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。 

お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。 

今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・』 

10分くらいのビデオテープだった。 

 

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俺、泣いた、本気で泣いた。 

次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。 

みんなにバカにされるくらい勉強した。 

俺が一浪だけどマーチに合格した時、 

親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。 

そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。 

 

また、よく見てみたら。 

ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。 

お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってるんだ。 

 

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俺また泣いちゃったよ。 

父親も辛かったんだろうな、 

親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、 

就職決まった時、 

親父が『これでお母さんに怒られなくて済むよ』なんていってた。 

俺このビデオテープがあったからまっとうに生きられてる。

 

「母の匂い」

 

その先生が5年生の担任になった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。

中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。 

ある時、少年の1年生からの記録が目に止まった。

「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。

間違いだ。他の子の記録に間違いない。先生はそう思った。 

2年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。3年生では

 

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「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りをする」。後半の記録には「母親が死亡。 

希望を失い、悲しんでいる」とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう。」 

先生の胸に激しい痛みが走った。ダメと決めつけていた子が突然、

深い悲しみを生き抜いてる生身の人間として自分の前に立ち現れてきたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。 

放課後、先生は少年に声をかけた。

「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からないところは教えてあげるから」。

少年は初めて笑顔を見せた。 

それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。

授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。 

クリスマスの午後だった。

少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。後で開けてみると、香水の瓶だった。

亡くなったお母さんが使っていたものに間違いない。 

先生はその1滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。

雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。 

「ああ、お母さんの匂い!今日はすてきなクリスマスだ」 

 

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6年生では先生は少年の担任ではなくなった。卒業の時、先生に少年から1枚のカードが届いた。

「先生は僕のお母さんのようです。そして今まで出会った中で一番すばらしい先生でした」 

それから6年。またカードが届いた。

「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担当してもらって、

とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」。 

十年を経て、またカードがきた。

そこには先生と出会えたことの感謝と父親に叩かれた体験があるから患者の痛みがわかる医者になれると記され、こう締めくくられていた。 

「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を神様のように感じます。 

大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生の時に担任してくださった先生です」

そして1年。届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座ってください」と1行、書き添えられていた。

 

「オレオレ詐欺」

 

31 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2009/11/29(日) 15:26:23.59 ID:0+DxyJwG0 
ある日、叔母さんのうちに一本の電話がかかってきた。 

 

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「こちら警察のものですが、お宅の息子さんが事故を起して通行人に怪我をさせてしまいまして、 

被害者の方から示談で良いとのことで、至急こちらの口座に振 り込んでいただきたいのです。ただいま、息子さんに代わりますね・・・」 

叔母さんはすぐにそれが最近流行っているオレオレ詐欺だということに気が付いた。 

なぜなら、息子は5年前に事故で亡くなっているからだ。 

「母さん、俺だよ、事故起しちゃってさぁ、大変だよ。すぐに示談金振り込んでくれよ」 

叔母さんはその声を聞いてハッとした。 

死んだ息子の声とそっくりだったからだ。 

 

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まるで死んだ息子が蘇り、そこにいるような気がした。 

叔母さんは電話を切ることが出来ず、 

しばらく息子にそっくりなその電話の声に聞き入っていた。 

そして再び警察官と名乗る男に代わった。 

「そういうわけなので、どうかお母さん、示談金、お願いしますね・・・」 

再び息子と名乗る男に代わった。 

「母さん、ゴメンよ、助けてくれ」 

そこで叔母さんはやっと真実を話した。 

「あのね、私の息子は5年前に死んでるの。」 

電話の声がパタリと止まった。気まずい空気が流れた。 

しばらくの沈黙の後、電話が切られる前におばさんは言った。 

 

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「ちょっと待って、あなたの声、息子とそっくりなの。 

 電話切る前に、もう一言だけ、声を聞かせてもらえないかしら。」 

しばらくして、電話の主はこう言い、電話を切った。 

「母さん」

 

「大丈夫!この子の誕生日に死んだりしないから。」

 

845: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/19 01:47:35

明日(あ、もう今日だ)は息子の5回目の誕生日だ。 

そしてその次の日は、嫁がこの世からいなくなった日。 

妊娠して胎盤の位置が悪いとかで、大出血の恐れがあると言われたうちの嫁、 

予定日近くになると入院して管理して、帝王出産する予定だったのが一ヶ月も早く陣痛が来て 

呼び出された俺が病院に着いたときには、もう子宮の入り口とやらが開いてしまっていた。 

当然出口付近にあった胎盤は剥がれて大出血。 

 

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それに酸素を送ってもらってる赤んぼが危ないと、緊急帝王切開に向かう途中、オロオロするしかない俺に嫁が言った。 

「大丈夫、死なないから。自分の誕生日が母ちゃんの命日なんて、この子に申し訳なさすぎるもん」 

その後、ちょっと小さかったけど元気な赤んぼが生まれ、胎盤が剥がれた場所から出血が止まらなかった嫁は 
何とかショックを起こして意識がなくなった。 

新しい血を入れてもそれ以上に出血が止まらない状況で、医者は青い顔で「今夜一晩もつかどうか」と俺に言った。 

でも嫁は、息子の誕生日であるその日が終わるまでどうにか持ちこたえ、手術室に入る前に言った言葉通り 

息子の誕生日と嫁の命日が一緒になることはなかった。 

息子は母ちゃんのことを自慢に思ってる「すっごく頑張りやだったんだよ」って鼻の穴膨らませて自慢してるwww 

俺も嫁んとこに行ったときには、嫁に「父ちゃんも結構やるじゃん」と言ってもらえるようにまだまだ頑張るつもり。 

 

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中途半端に時間が経って、誰かにこんな気持ちを話せるようなこともなくなったのでここにカキコ。 

今日は会社の帰りにケーキを買って、明日はガーベラの花を買おうと思う。

 

「余命」

1990年5月、婚約者が肝臓ガンで余命半年と宣告された。

自分より2歳年下の彼女は当時25歳、将来の生活を想像し、

お互い希望に胸膨らませ、幸せの絶頂にあった2人にとって、

それは到底絶え難き試練であった。しかし、彼女は強かった。

事実を受け入れ、最期まで諦めずに生きると誓ってくれた。

そこから2人3脚の闘病生活が始まった。大型トレーラーの

運転手である自分は勤務が不規則ではあったが、それでも、

 

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出来る限り彼女の病室を訪れ、励まし、応援を送り続けた。

彼女もそれに応えるように治療に望み、一歩ずつではあるが

歩き続けた。その結果、その年の9月には、2人で北海道を

旅行出来るまでに回復した。そして、一縷の望みが生まれた。

『もしかしたら、彼女は助かるかもしれない!』

 

話は2泊3日の旅の初日、小樽を訪ねたときに進む。当時、

小樽では『石原裕次郎記念館』の建設工事が進められていた。

母親の影響で、子供の頃から裕次郎のファンだった彼女は、

『もし、私に奇跡が起こって、再び小樽に来られたときは、

 一番に石原裕次郎記念館に来てみたい。』

と言っていた。自分もその言葉に微かながらも希望を持った。

 

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しかし、その奇跡が起こることは無かった。札幌の時計台を

訪れたとき、『恋の街札幌』を唄っていた彼女は、それから

3ヶ月余りが過ぎた1990年12月5日早朝4時31分、

『お爺ちゃんに会いに行って来る!』という言葉を残して、

お婆ちゃん、両親、弟と妹、そして、自分に看取られながら、

大好きだったお爺ちゃんのところへ旅立っていった。

昨年、彼女の13回忌を済ませ、自分も今年40になるが、

自分の心の中に永遠に生き続ける彼女を支えにして、今日も

生きているのである。

 

引用元:https://matome.naver.jp/odai/2137904457627642001