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【涙腺崩壊・厳選!!】何度みても泣ける話 まとめ⑧

 

「14年前」

もう14年も昔の話なので、今は普通に暮しているけど、母が癌で死んだ。 

しかも子供だった私達姉妹は最後まで癌だった事は知らされずに死んだ。 

本当に素晴らしい人だった。たぶん一生私の中で尊敬する人だし、目指すべき人でもある。 

抗がん剤を投与して髪が無くなりレースのヘアーキャップをかぶって病室で笑ってる母を 

今でも思い出す。私の中学の入学式の日に無理やり病室から出てきてかつらで入学式に出てくれた母。 

制服姿の私を見て涙する母に大げさだなーと笑っていた私。 

後から聞けば、前日父から母に癌を告知されたらしい・・・ 

東京の病院に移り、北海道の私達の家に無言で帰宅した母に驚きでしばらく涙も出なかった。 

その後、癌だと言う事を教えてくれなかった父に激しく怒りをぶつけ、口も聞かなかった。 

 

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でも、父は父で1人で辛い思いをして来た事に気づいたのは母が父に宛てた手紙を見つけた時だった。 

その手紙の日付の夜、父は真夜中まで帰って来ず目を真っ赤にして次の日の朝笑っていた事を思い出した。 

この前飛行機に乗って、前列の方に遺体があるのに気づき、その後ろで黙って座っている 

男性を見たとき、父も同じように帰ってきたんだなと思い涙が出た。 

昨日から色々自分の事で悩んでいて、死んでしまいたいと思っていました。 

でも、このスレッドを見て死んだ母の事を思い出し、又、色々な方々の体験を読ませて貰って 

自分の愚かさに気づきました。

 

「震災と向き合う12歳の日記」

 

「お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。

津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました」。

巨大地震と大津波が東日本を襲ったあの日、子供たちは何を見、その後をどう生きたのか。

岩手県山田町の町立大沢小学校を3月に卒業した箱石佑太君(12)が毎日小学生新聞に寄せた体験日記には震災と向き合う姿が率直につづられていた。

 

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 ◇3月11日

 卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。

最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと思っていました。

来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、

国道45号線を水とがれきが流れているところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。

だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。お父さんのことが不安でした。

車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました。

 ◇3月18日

 津波から1週間。お母さんは、もうこんなに日がたっているのに、まだお父さんが見えないとあきらめていました。

じいやんは泣いて「家も頑張って建てるし、おまえたちだってしっかり学校にいかせられるように頑張るから

、お父さんがもしだめだとしても頑張るからな」と言っていました。

 

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 ◇3月23日

 卒業式でした。「ありがとう」の歌を歌っている時、お父さんに「お父さん、お父さんのおかげで卒業できたよ。

ありがとう」と頭の中で言いました。そしたらなぜか、声がふるえて涙が少し出てきました。その夜、こんな夢を見ました。

お母さんとお父さんが宮古のスーパーマーケットから帰ってきた夢でした。

 ◇3月25日

 親せきの人の携帯に電話がかかってきました。内容は、お父さんらしき人が消防署の方で見つかったということでした。

急いで行ってみると、口を開けて横たわっていたお父さんの姿でした。ねえちゃんは泣き叫び、お母さんは声も出ず、

弟は親せきの人にくっついていました。顔をさわってみると、水より冷たくなっていました。

 ぼくは「何でもどったんだよ」と何度も何度も頭の中で言いました。

「おれがくよくよしてどうすんだ」と自分に言いました。でも、言えば言うほど目がうるんでくるばかりです。

お父さんの身に付けていたチタン、東京で買った足のお守りや結婚指輪、携帯。

そして驚いたのが時計が動いていたことです。お父さんの息が絶えた時も、津波に飲み込まれている時も、ずっと。

お父さんの時計は今はぼくのものになっている。ぼくがその時計をなくしたりすることは一生ないだろう。

 

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 ◇3月26~27日

 見つかった時のお父さんの顔。まだ頭のどこかで見なきゃよかったと。

でも見つかったおかげで火葬もできるし、お父さんをさわることができた。

お父さんの体は水を飲んだのか胸がふくらんでいるだけだ。やっぱり見つかってよかった。

 ◇3月28日

 きょうは火葬の日。ぼくとねえちゃんとお母さんとけいじろうは、手紙を書いて、

お父さんと一緒に入れてやりました。拝んでいる時ぼくは「箱石家は頑張って継ぐからまかせて」と言いました。

お墓に骨を埋めるまで、ぼくに骨を持たせてくれました。骨をうめてホッとしました。

 ◇4月7日

 きょうは、ありがたいと心から言える日でした。お父さんとぼくたちの記事を見て、

お父さんが東京マラソンを走った時の写真とお手紙を新聞の人が持ってきてくれました。

ぼくたち家族に贈る言葉や、さらにはぼくに贈る言葉の手紙もありました。

やっぱりお父さんはすごい。

今日は本当にありがたい日だ。

 *    *

 

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 箱石君は25日、155人の仲間と一緒に町立山田中学校に入学した。

日記は、大沢小の子供たちが復興に立ち向かう様子を紹介する「大沢からの報告」として毎日小学生新聞に11日に掲載。

何回も読み、涙が止まりません。皆様が少しずつでも前に進める日がくることを願っております。

 

「白いヒール」

 

私は昨日小学4年生の子から手紙で相談を受けました

『僕のお母さんに元気になってほしくてプレゼントをあげたいんだけど、僕のお小遣いは329円しかありません。

この値段で買えて女の子が喜ぶ物は何ですか?』

という内容でした。

その子の母親はガンで長く生きられないのです。

男の子はその事実は知りません。

私は今日デパートに男の子を連れていきました。

 

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「お母さんダイエットしてるのかな?ご飯全然食べないし無理して笑ってるみたいなんだ。ダイエットのやつ買えるかな」

「靴かえるかな?お母さんと水族館いきたいな」

「手紙かぁ、恥ずかしいよ!でも書いてみるね。うん、折り鶴に書いてみる」

「お花買えるかな?でも枯れたら悲しいから、サボテンにしようかな?」

「お母さんの手冷たかったから手袋買えるかな?でも、冬しか使えないよね」

「お母さん、キャビア食べたいって言ってた!買えるかな?」

その子の母を思う言葉一つ一つに涙が出そうになりました。

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「僕、靴にする!お母さんといろんな場所に行きたいんだ!」

靴なんてとても300円程度では買えません

私はその子がトイレに行ってる間に靴売場に行き、事情を話し、300円で買えるようにお願いしました。

もちろん後から足りない分、私が払うつもりでした。
店員は快く、了解してくれました。

その子を連れて靴売場に行くと、300円均一と紙に書いてありました。急いで作ったのか雑でしたが胸が熱くなりました。

「これにする!」選んだのは白いヒールの靴でした。後で払おうとしたら「300円ですから、ちょうどです」と笑顔で言われました。感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。

「早くお母さんの喜ぶ顔が見たい」
と言われ、さっそく病院に向かうことになりました

 

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お母さんプレゼント!!大きな声で笑顔で病室のドアを開けました。

驚いて中身を見、母親は泣きだしました。

『ありがとう。でも、ごめんね、お母さん、もう靴を履いて出かけられないかもしれないの。死んじゃうかもしれないの』

男の子は驚いた顔をし、うつむきこう言いました

「一生懸命生きた人間は星になるんだ!一生懸命輝いた星は人間に生まれ変わるんだよ。空を見ればお母さんがいるから寂しくないよ!でも、一生懸命に生きないとダメだから諦めないで頑張ろう!

僕、お母さんと水族館いきたいんた!ずーと、はけるように大きいの買ったよ」

母親は涙をふき笑顔で男の子を抱き締めました。

もし、病気などで諦めかけてる方、男の子の言葉を思い出してください。諦めず頑張る事、まだ幼い子が懸命に大切だと訴えています。

生きることを諦めないで。

 

「ガイドブック」

 

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東京で単身赴任してたとき、連休とかにはいつも嫁が来て、家のことなどしてくれていた。

母にも、たまには東京来いよと言ってたんだけど、人混みが苦手だと決して来なかった。

そんな母が脳梗塞で突然死んじゃって、呆然としたまま遺品を整理していたら、東京のガイドブックが出てきた。

皇居とか、浅草とかベタなところに一杯赤鉛筆で線引いてあって、何度も読み返したらしくボロボロになってた。

親父に聞いたら、行きたかったんだけど嫁の方ががいいだろうって我慢してたんだそうだ。

自分は肉が嫌いなくせに、俺の好きそうな焼肉屋とかにも一杯線引いてあって、俺と一緒に回るのを夢見てたみたい。

俺は、お義理で誘っただけなんだけど、誘われた後は何回も何回も息子が来いと言ってくれたと喜んでいたらしい。

 

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一緒に行きたかった場所には、俺の名前が書いてあって、それがたくさんたくさん書いてあって…

死に顔を見たときよりも、葬式の時よりもすっごく泣いた。

田舎に戻った今でも、生きてる間に呼ばなかったこと後悔している。

 

「白猫のミーコ」

 

私が生まれる前から

私の家には猫がいた

白くて、ふわふわで、温かかった

私はミーコが大好きだった

ミーコもそんな私に懐いてくれた

 

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父が入院し、母も体調が悪くなったときも

中学入試をさせたがった母が、

何一つできない私に怒り、家の外に追い出され

一人で泣いていたときも

両親が働きに出て寂しいときも

ミーコはいつもそっと傍に居てくれた

ただ隣に座っていてくれるだけで力をもらえた

私は無事母の言っていた私立中学に合格した。

しかし

 

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中二の冬休みに母は言った。

「中学校を辞めて、公立の方に行きなさい。」

そんなの嫌だった

だけど

母は私にもっと上の高校に言って欲しいと言った。

立派な人間になってほしいと言った。

気持ちは嬉しかった。

私を思ってくれてた。

私の頭にはこの母の説得を押しつぶせることができる

そんな言葉を思いつくことが出来なかった。

 

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毎晩泣いていた。

新しい学校でいじめもうけた。

近所の大人たちは陰口をいい、話してくれなかった。

母を恨んでしまう自分が情けなかった。

先が見えなくて不安だった。

そんな頼りない私が心配だったのか、

ミーコは二十歳になった。

人間で言うと120歳だと聞いた。

 

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中三になりある模試で学校で一位になった

母も褒めてくれた。

私は久しぶりの満面の笑みでミーコに報告した。

ミーコの声が少し高く、明るく感じた。

私が1位だったことが広まると、

いじめはだんだん少なくなっていった。

ミーコはだんだん弱っていった。

そしてある日

 

学校から帰ると

小屋の中で死んでいた。

冷たかった…

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はじめは全然涙が出てこなかった。

ミーコが居なくなるという実感がわかなかった。

ミーコの墓を作っている間

私は何も話さなかった

家に帰って、落ち着くと急に実感がわいてきた

涙が溢れ出した

私はまたミーコの墓まで走って行き、言った

「ミーコ、今までありがとう。」

そう言って涙でぐちゃぐちゃな顔で笑った。

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もう私は大丈夫だよ。

 

しっかり笑って生きていくよ。

だから…安心してね。

天国で会えたら、ミーコと話がしたいな…

今度は私が聞いてあげる。

私も楽しい話が出来るように今から頑張るね。

『ミーコ、本当に大好きだよ。』

 

引用元:https://matome.naver.jp/odai/2137904457627642001