【評価】映画評論家が『プペル』をレビューした結果…!!

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1: ニライカナイφ ★ 2021/02/14(日) 19:43:06.37 ID:CAP_USER9
一部では『鬼滅の刃』以上に注目を集めている作品である。その“話題性”とは裏腹に、実際に観たという人は、意外と(?)少ないのではないか。かくいう私もその一人である。ということで、1月某日の15時すぎ、東京のTOHOシネマズ上野を訪れた。

映画館のロビーは閑散としていた。しかしプペルのスクリーンに入ると、ほぼほぼ満席状態。さすがは話題作である。隣に座った女性はスーツケースを抱えていた。……そして上映中、彼女はずっと泣いていた。これが噂に聞く“信者”だったのか?スーツケースの中身は、サロン会員が公認で転売できるという「前売チケットと台本で3000円」が詰まっていたのか?以下は、号泣する客の隣でノート片手にプペった拙評である。

■ えんとつ町のコピペ感
「えんとつ町は煙突だらけ。そこかしこから煙が上がり、頭の上はモックモク。 黒い煙でモックモク。えんとつ町に住む人は、青い空を知りません。輝く星を知りません」

えんとつの向こうの世界をくり返し、紙芝居で語るブルーノは、ホラ吹きだと村八分になってしまう。でも煙の向こうには父さんが言ったように、青い空、星空があるんだ! それを明らかにするため息子のルビッチは旅に出る。城を発見し父親が嘘つきじゃなかったことを証明した、あの『天空の城ラピュタ』(1986)のパズーみたいに!渋谷駅前のスクランブル交差点だったり大阪の道頓堀だったりををベースにしたような街角が散見される。アジアを基本に無国籍風に仕上げた町の景観は、酸性雨が降りつづける『ブレードランナー』(1982)が描いた2019年11月のロサンゼルスから影響を受けたのか。赤い提灯があちこちを飾っているのは、『千と千尋の神隠し』(2001)冒頭、ひしめき合う屋台の軒に吊るされていた提灯を、思い出させる……。

あちこちの映画から設定や世界観をコピペしてきたような『えんとつ町のプペル』の原案・脚本・製作総指揮をつとめたのはごぞんじ、「芸人で絵本作家で、日本最大のオンラインサロンを運営している」西野亮廣氏だ。西野氏はサロンメンバー限定で、『えんとつ町のプペル』製作の過程を公開するプロジェクトを提案した。そのビジネスの革新性をこう語っている。

〈宮崎駿さんの映画がどんなに面白くっても僕らは、1800円しか払えないじゃないですか? チケット代しか払えないじゃないですか? でも宮崎駿さんが映画を作っている過程を一枚のサブスクで、ずっと定点カメラで覗けますみたいなサブスクがあったとしたら僕……絶対入るんですね〉

そして孫正義の「プロセス・エコノミー」という概念を借りて、彼はこう言う。

〈で、それが一万人いたら、僕みたいな人間が一万人いたら……月一億円じゃないですか。で、それが毎月入るわけじゃないですか? そうすると完成品よりプロセスの方が明らか、利益率が高い〉(2020年12月19日「NewsPicks」YouTubeチャンネルでの発言より)

まともな人間はここで、総ツッコミするはずだ。それはともかく、『えんとつ町のプペル』を見ると彼が、宮崎駿を多分に意識していることは分かる。

■ 死んでいるアニメ
たとえば『天空の城ラピュタ』の名場面のひとつ、ドーラとその息子たちの海賊一家を載せたオートモービルと、パズー、シータを乗せた軽便鉄道の追跡劇。車に走られた鉄道用の木製線路はガタピシいって、枕木は次々落下していく。ドーラがぶっ放したランチャーによって、パズーとシータは、谷底に真っ逆さま……と思いきや解放された飛行石の力に救われるのだ。谷底の廃坑で老人ポムに出くわす。「小鬼じゃ、小鬼がおる……」そこから発想されたであろう場面が、『えんとつ町のプペル』にある。迫りくる歯車と鉄球をかわしたルビッチと“ゴミ人間”プペルはトロッコに飛び乗って、坑道の傾斜を滑走していく。その先、炭鉱の壁面が青く輝く場所で、彼らは老人と出逢うのだ。障害物を次々超えて坂道を滑降するパーク&ライド、遊園地のアトラクション的な興奮を狙ったくだりだ。汽車、車、トロッコ……同じ乗り物を駆使してのめまぐるしい場面転換を、本作も一連の流れで見せてはいる。でもプペルのアニメーションは完全に、“死んでいる”。

■ 失敗したスプーン曲げみたいに
ものすごいスピードで絵コンテの束をめくりながら修正を入れていく。宮崎駿のそんな姿を『プロフェッショナル仕事の流儀』で見たひとも多いだろう。現実の世界には存在しない運動が、いま彼の目の前で生まれている。

それを見ている目はいつだって好奇心で、子どものように輝いているのだ。

先に挙げた『天空の城ラピュタ』の場面を細かく見てみよう。

 定員オーバーの上に鉄道線路を走っているものだから、ボディやタイヤは歪んだりひしゃげたりして悲鳴を上げている。それでもしゃにむに爆走するオートモービルの姿かたちは、生き物のように躍動・変化している。アニメーションの語源は「いのちを吹き込む」という意味で、だから「絵」を「連続させる」という二重のデフォルメによって生まれる魔法のことなのだ。

 ラピュタにあってプペルには完全に欠落しているのは、このアニメーションだ。『えんとつ町のプペル』の絵に描かれた歯車や鉄球、トロッコはわれわれが普段見知っているままに、ただ退屈に動いている。そこにはいのちの気配が、感じられない。

 種も仕掛けもあるアニメーションは、魔術や奇術と同じようなものだ。そして見事スペクタクルとして魔術や奇術が大成功した時、観客たちはことばを失った。弾丸を歯で受け止めたロベール・ウーダン(1805~71)、象を消し拘束状態から脱出劇を十八番としたハリー・フーディーニ。(1874~1926)、その透視能力で東京帝大の教授をも唸らせた御船千鶴子(1886~1911、『リング』1998の貞子の母のモデル)といった“エンターテイナー”たちが挑戦した見世物を目の当たりにして……。

 では『えんとつ町のプペル』というアニメーションは、100分の上映時間のあいだだけでも現実を忘れさせてくれる、とっておきの魔術・奇術に値する“見世物”になっていただろうか?しかし結果は……失敗したスプーン曲げくらい、の出来である。西野氏がくり返し目配せするジブリ作品でいうならば『ゲド戦記』(2006)以上、『借りぐらしのアリエッティ』(2010)以下くらい?

 こんな映画に優秀アニメーション作品賞を与えたりしてしまうのだから、日本アカデミーも罪深い。

椋圭介(むく・けいすけ)
映画評論家。「恋愛禁止」そんな厳格なルールだった大学の映研時代は、ただ映画を撮って見るだけ。いわゆる華やかな青春とは無縁の生活を過ごす。大学卒業後、またまた道を踏み外して映画専門学校に進学。その後いまに至るまで、映画界隈で迷走している。

デイリー新潮取材班編集

2021年2月10日 掲載

 

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