【コンビ愛】博多大吉の「1年間の自宅謹慎処分」の理由がエグい・・・謹慎を乗り越えた2人の感動秘話。
博多華丸・大吉とは日本のお笑い芸人である。
1990年に福岡大学落語研究会に所属しそこで出合いコンビを結成する。
吉本福岡事務所の1期生としてデビューし2005年に東京に進出し現在は吉本興業東京本社に所属している。
☆博多華丸 (本名 岡崎光輝) 1970年4月8日生まれ 福岡県福岡市早良区出身。ボケ担当。既婚者。
☆博多大吉 (本名 吉岡廣憲) 1971年3月10日生まれ 福岡県古賀市出身。ツッコミ担当。既婚者。
概要
1990年当時できたばかりの吉本興業福岡事務所の1期生として入り芸能界デビューを果たす。
デビューした年からローカル番組や地元ライブで知名度を高め福岡県をはじめとする、九州・山口地方ではトップクラスの人気を誇るようになる。
東京に行き全国デビューする以前にも爆笑オンエアバトルでゴールドバトラー(15回以上出場しオンエア率が7割5分以上、もしくは20回以上のオンエア)の称号を得るなどの活躍をし徐々に全国に名前が知られるようなっていた。
ちなみにゴールドバトラーの称号を持ちながらチャンピオン大会に出場できていない唯一のコンビでもある。
2001年の第1回M-1グランプリに出場する。
当時のM-1グランプリは全国的なイベントであるという事をアピールするためにも地方事務所からも積極的に参加者を募っていた、そのため福岡事務所の代表的な扱いで出場依頼が届くがその時すでにコンビ結成から11年が経過しておりM-1グランプリの出場資格であるコンビ結成10年以内から外れていたのだが。
吉本興業の社員から『ええねん、ええねん、かまへんから出ろ』と言われ出場をする。
順調に準決勝まで勝ち残るがコンビ結成11年目はやっぱり駄目だと言われ実質の失格扱いで決勝には残れなかった。
2002年ごろから東京進出が噂になり始めるが、福岡事務所の最大の看板である華丸大吉がいなくなれば巡業などの仕事が激減してしまう事や東京進出を押してくれていた吉本興業の当時の社長が病に倒れて会長職に退いた事などからこの話は一旦消えてしまった。
2004年屋号を現在の『博多』に改名する。
それまでは鶴屋華丸 亀屋大吉という芸名で活動していたが福岡事務所の職員で姓名判断が得意だというおばちゃんのアドバイスを受け博多華丸 博多大吉に改名する。
この改名のアドバイスをくれたおばちゃんに『屋号を博多に改名し2年以内に東京に進出すれば運気が上がる』とアドバイスを受けた。
2005年ついに東京に進出を果たす。
だが九州・山口に置いてはトップクラスの知名度誇るが全国ではそれほどの知名度がなく新人扱いで様々なオーディションを受けては落選を繰り返しルミネthaよしもとが主な仕事であった。
2005年10月 とんねるずの細かすぎて伝わらないモノマネ選手権に華丸が出場、児玉清のモノマネで人気を博し、第6回、第7回大会で連続優勝し注目を浴びる。
2006年R-1グランプリに華丸が出場し児玉清のモノマネで見事優勝を果たし本格的な全国デビューを飾った。
ちなみにネタ作りを担当したのは相方の大吉で影で華丸を支えていた、華丸も優勝賞金の500万のうち半分を大吉に渡した。(大吉は当初断ったが華丸が押しつける形で渡したらしい)
2006年9月 今まで面識ながった児玉清とアタック25の芸能人大会に出場する形で初体面を果たす。
デビューから15年間福岡を本拠地として活動していたため東京での知名度はそれほど高くなかったが福岡に仕事で来る芸能人達や業界人にかなり多くの知り合いがいる。(藤井フミヤ、つんくは飲み友達である)
福岡事務所の後輩芸人の兄貴分として親しまれている。
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