内野さん一家。苛酷残業で疲れきった健一さんだったが、よく子どもの面倒を見て家事も手伝っていたという
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トヨタ自動車の1兆円の利益は、従業員に強いられた苛烈な労働から生み出される。2002年2月9日、月に144時間を越える残業をしていたトヨタ自動車社員、内野健一さん(当時30歳)が職場で倒れ死亡した。妻の博子さん(36歳)は労働基準監督署に労災を申請したが却下され、その取り消しを求め裁判を起こしている。テレビや新聞は裁判をほとんど報道せず、紙面に掲載したとしても「自動車工場」などと企業名を伏せている記事もあるほどで、この裁判を半ば黙殺中だ。妻の博子さんに聞いた。
【Digest】
◇ある朝突然に夫は逝った
◇現地版のみのマスコミ報道
◇夫の弟、義父、実の父もトヨタ関係
◇勤務時間は6:25~15:15と16:10~1:00
◇なぜ深夜に自動車をつくらなければならないのか
◇夫が深夜にベランダから“浸入”帰宅
◇変則勤務で夜間手当てを会社は節約
◇夫はトヨタ社員であることを誇りにしていた
◇月給は20万円台、2回の出産時は海外出張
◇電話の音も止めて夫を寝かせた
◇トヨタに「祝日」という文字はない
一従業員の死の根底には、世界のトップ企業・トヨタ自動車の構造的問題が隠されている。亡くなった内野健一さんの身に、何が起きたのか。
◇ある朝突然に夫は逝った
2002年2月9日、まだ辺りは真っ暗な早朝。自宅で寝ていた内野博子さんは、インターフォンとドアを叩く音で目が覚めた。トヨタ自動車の堤工場で働く夫が仕事中に倒れたと、彼女の母親が告げにやってきたのだ。
内野さんはそのときのことを振り返る。
「あまりにも突然の知らせでした。夫は子どもの頃から車が好きで、工場では『カムリ』『ウィンダム』の車体品質検査をしていました。ひどい仕事疲れだったとはいえ、病気もしなかった夫がなぜ・・・。
もちろん、会社の人は、自宅に電話を入れました。でも、夜勤のある夫のため、電話の音が寝室で聞こえないようにしていたのです。ですから、夫が工場で倒れたことをすぐに知ることはできませんでした。
享年、30歳でした。亡くなる半年くらい前から夫の残業がどんどん増え、年が明けてからは異様な働きぶりでした。私は不安にかられていたのですが、その不安は的中し、過労による致死性不整脈で死んでしまったのです。
夫はいつもニコニコした優しい人で、疲れているのに家事もよく手伝ってくれ、子どもの面倒もよく見ていました」
内野家には当時、3才と1才の子どももいた。夫の死後、内野さんは、豊田労働基準監督署に労災申請したが、却下された。それでは納得できず、愛知労働者災害補償保険審査官に対し、原処分の取り消しを求めて審査請求した。ところがこれも却下。
そのため2005年7月22日、遺族保障年金などの不支給処分(320万円)の取り消しを請求し、内野さんは国を相手取って裁判を起こした。
トヨタ自動車の過労死に関係する過去の裁判では、同社の係長だった夫(当時35歳)が過労で自殺したのに、豊田労働基準監督署の署長が労災と認めず遺族補償年金を支給しなかったのは違法とする妻が不支給処分取り消しを求めた訴訟があった。これは内野さんの訴訟と同種のもの。
この裁判では2003年7月、名古屋高裁で原告の主張が認められた。この訴訟の担当弁護士によると、過労自殺をめぐる労災認定訴訟で高裁が労災を認めたのは初めてだという。
内野さんは、訴訟に踏み切るにあたってこう述べている。
「夫が亡くなる最後の1ヶ月間は、残業時間が144時間にもなる過酷な状況でした。これでどうして労災ではないのですか。
夫は家族のために一生懸命働いたんだ、こんなに頑張ったんだ、その頑張りを認めてもらうために私は闘うことにしたのです」
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2006年4月5日付「毎日新聞」。過労死問題に切り込んではいるが、「自動車工場」と表現し、トヨタという企業名は伏せられている。
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◇現地版のみのマスコミ報道
亡くなった2002年当時はもちろんのこと、2005年7月22日の提訴の際にも、この事実は、ほとんど報じられなかった。世界のトヨタの労働現場で起きた過労死が労災認定されないという重大な事件だ。新車の発売や新規投資など、景気のよい話については一挙手一投足にいたるまで全国版で報じるマスコミだが、負の側面は示し合わせたように隠す。
各紙のデータベースで調べてみると、朝日、毎日、読売、日経は、いずれも23日付の「中部朝刊」または「名古屋朝刊」で、アリバイ程度に短く伝えたのみ。それ以外の地域に住む全国の読者は、その存在をほとんど知らない。続報についても、「しんぶん赤旗」が取り上げたのみだ。今年夏から地元の中日新聞が少し取り扱い始めたものの、事件を全面的に取り扱っているわけではない。
背景に、マスコミに投じられている年間1千億円を超える広告宣伝費の影響があるのは間違いない。広告を一切とらないMyNewsJapanで、被害者の立場から、じっくり事実をお伝えしたい。
◇夫の弟、義父、実の父もトヨタ関係
博子さんは、大学時代にトヨタ自動車のディーラーでアルバイトをしていて夫の健一さんと知り合った。一学年下の夫は、1971年生まれ。高校を出てすぐの1989年4月1日にトヨタ自動車に入社し、豊田市内の堤工場で亡くなるまで働いている。
「少年の頃から車が大好きで、機械いじりが好きだったそうです。好きな車を作る会社で働くことができ、しかも世界でもトップのトヨタ自動車本社で、正社員として働くことに非常な誇りを持っていたのです」
内野さんと残された2人の子どもが住む愛知県安城市や、会社のある豊田市では、トヨタ関連に勤めている人が圧倒的に多い。
「関連会社を全部含めると6~7割の人が豊田関係に従事しているというのが実感です。トヨタ関連以外だったら、公務員か自営業しかないのではと子どもの頃は思っていたほどです」
内野さんの父親も車の木材部分を作る仕事に従事していたし、夫の父親もトヨタ自動車本体で働いており、夫が亡くなったときはまだ現役だったという。また夫の祖父と母もトヨタ自動車の従業員でした。
「周り中がトヨタに関わる人ばかりですから、私がこうして裁判に訴えるのはつらいものがあります。
労災を認めてほしいという署名を社員の奥さんたちにお願いしても、断られます。署名をしたからといってクビになるはずがないのに。
それでも夫が亡くなったときは、まだ社員だった義父が、不憫に思ったので『労災に訴えます』と会社にはっきり言ってくれました。大きな決断だったと思いますね。そのあと私がいろいろ活動することに対し『労災申請したんだから、後は上に任せて何もするな』と言われて、一時期は葛藤がありました。それでも退職が決まって最後の何日かのときに、義父は社長に手紙を書いてくれました」
◇勤務時間は6:25~15:15と16:10~1:00
内野さん夫妻は、1995(平成7)年7月7日に結婚届を出した。結婚前は、健一さんが夜勤の週はデートできなかったが、それはしかたがないと納得はしていた。
ところが、結婚する直前のゴールデンウィーク明けから、会社の勤務体制が変ったのである。いま思えば、このときから、死へむかう“準備”のようなものが始まっていたのかもしれない。
「それ以前は完全な二交代制で、昼が朝8時から午後5時、夜勤が夜8時から朝5時。それが、連続二交代制に変ったのです。連二(れんに)と言います。
早番(一直=いっちょく)は朝の6時25分就業で昼の3時15分終業。遅番(二直=にちょく)が、午後4時10分から夜中の1時まで。この勤務体制が一週間交代で続きます。これは、今も変っていないと思います。
すごく中途半端な時間なんです。以前の二交代制であれば、どちらの直でも家族と顔を合わせたり食事ができます。なのに、連二ではこれが簡単にできない。新婚当初は頑張ろうと思って、早番のときは朝4時に一緒に起き、朝ご飯食べて4時40分過ぎに夫を見送る生活をしてみました。
私も当時、仕事をしていましたから、夫を見送ってから寝るにしても中途半端だし寝られませんでした。そのため本当は9時始業のところを8時にしてもらい、夕方は4時半に終わって帰っていました。
私が仕事をして帰ると、主人が一直のときは、(3時15分終業)とっくに帰っています。それから私がご飯つくる。でも、朝が4時前起きなので8時には寝なくてはならないんです。二人でゆっくり話す時間はほとんどありません。ですから彼が一直のときは、私は残業がまったくできず急いで帰らなければなりませんでした。
逆に二直のときは、彼が寝ているときにそっと起きて私が出かけますよね。私が仕事場から昼の1時過ぎに自宅にモーニングコールをして彼を起こして・・。昼の2時までには出かけなければなりませんでしたから。そして、真夜中に帰ってくるんです」
◇なぜ深夜に自動車をつくらなければならないのか
「夫が二直のときは帰宅してもひとりでぼーっと過ごすだけです。ですから私は残業して遅く帰宅しようとしたのですが、どんなに残業しても、彼が帰ってくる夜中の2時、3時まではできません。せいぜい残業をして帰宅しても夜の9時、10時です。
だから新婚なのに毎日、一人でずっと過ごす生活が続いていたのです。
私は帰宅して何時間も夫の帰りを待っていました。新婚当時は、定時(深夜1時)に終業できることが多く、深夜の2時ごろには夫は帰宅できていました。まあ、2時が早い帰宅であるというのもへんなのですが・・。そもそも、どうして深夜も自動車を作らなければならないのかという根本的な疑問もあります。
それでも、新婚当初は夫の帰宅を待って深夜の2時すぎくらいに一緒に食事することもできたのです。とはいうものの私も仕事があるので早く起きなければなりませんから、私自身の体がきつくなりました。
新婚なのに、淋しかったですね。ですから少しでも一緒に顔を合わせようと食事の用意をして、テーブルにうつ伏せになって転寝していたものです。そういう毎日が続くと、家庭というものを感じられなくなってくるのですね。
あまりにもの淋しさに、自分の味方が欲しくなり、子どもが欲しくなってきて・・。普通の生活がしたいなあ、と毎日思いながら、次第にすれ違いの生活になっていきました」
◇夫が深夜にベランダから“浸入”帰宅
「その頃の失敗談があるのです。二直のときでした。深夜に女ひとりでいることを心配した夫は『ドアをきちんと閉めとけよ。鍵だけじゃなくてチェーンも閉めとけよ』と言っていたんですね。それで私も、しっかりと戸締りして寝ていました。
でも寝る前にチェーンだけはずします。そうしないと私が寝ているときに夫は部屋に入れませんから。
一度、うっかりチェーンを外さないで寝てしまったのです。そこに夫が帰ってきました。私に携帯電話をかけたそうですが、深夜の2時ごろでしたから、熟睡していて気が付かなかったのです。
彼はどうしたかというと、玄関の右側の塀に乗って、ベランダに入り込み寝室の窓を叩いて私を起こしたのです。私たちのマンションは7階です。下には何もありません。これで落下して死んでたかもしれない。夫はいずれにせよ、死ぬ運命だったのでしょうか。不思議な気持ちです。
これは私の失敗ですけど、変則勤務体制ゆえの失敗なんですよね。これが日勤や、完全な夜勤で朝帰りであれば、起きてドアのチェーンも鍵も開けられたと思います」
◇変則勤務で夜間手当てを会社は節約
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何度も労働基準監督署から労災申請を却下された内野さんは、ついに国を相手取る訴訟に踏み切った。
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「一直は朝4時半過ぎには出ますので、前の日は夜8時ごろに寝なければなりません。ですから、仮に前日は休みでも実質的に休みとはいえないかもしれません。若いときは無理ができるけれど、子どもができ、年を重ねていくと難しいです。現場のラインで働く人は定年までそれが続くわけですから、きついと思います。
他のトヨタ系のお母さんたちも言っています。お父さんは当てにしない、お父さんはいないんだ、という生活です」
このような変則勤務体制は、労働組合と会社が合意してできた。会社のメリットとしては、夜間手当てを減額できること。朝の5時まで就業するより、二直で深夜1時に終わると、これだけでも4時間分の深夜手当てが減ることになる。
一方、労働組合は、一直で仕事が終わってからでも銀行に行けるとか、地域活動に参加できるとか、家族との時間が増えるなどと主張しているという。
「しかし、これでは、家族が顔を合わせて話したり食事ができるのは、唯一、一直(6:25~15:15)の夜だけになってしまいます。夫に7時まで待ってもらって家族と食べる。彼にとっては、お昼ご飯は朝10時くらいですから、家族と食べようとすると夜の7時まで待ってもらわなければなりません。食事が終わったら、もう寝る時間です」
◇夫はトヨタ社員であることを誇りにしていた
このような勤務体制に社員からの疑問はないのだろうか。
「もっとみんな意見を言ったらいいと思うんです。いまも勤務体制は変っていないと思います。これでは生体リズムがおかしくなってしまいます。
夫は、『みんながやってるし、そういうものだし』という考えでした。ほかの社員の人も、『しかたがない』『若いから何とかやれる』という全体の雰囲気なのです。みんながそうだと一人だけ勤務時間を変えるわけにはいかないし・・。
『しかたがない』
『もうちょっと頑張れば変わるから』
夫は何度も何度もそう言っていました。もうちょっと、という意味は、もう少し経つと手伝ってくれる人が入ってくるからということです。定年間際の方が多い組(職場グループ)だったので、どうしてもライン外の多種の業務や雑用が夫に回ってきていたんですね。
あまりに大変なので夫にいろいろ話し掛けたのですが、トヨタを辞めるという話にはなりませんでした。関連企業でなくて、トヨタの本体に勤めていることを夫はとても誇りに思っていましたから。だから、職場を変わりたいと言ってはいましたが、辞めるという話にはなりませんでした」
◇月給は20万円台、2回の出産時は海外出張
生体リズムを崩すような勤務体系。それでは健一さんは、そこそこいい給料をもらっていたのだろうか。
「基本給は6万、7万円のレベルですが、生産性給や職能個人給、年齢給がついて…..この続きの文章、および全ての拡大画像は、会員のみに提供されております。