入学試験の難易度全国ナンバー1の灘高、日本で一番勉強ができた子達の「その後」・・・

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そう語るのはWさん。ではあまり勉強せず、成績は下位だったが、「なんとかなるやろ」と心配はしていなかった。小学生の時、IQが160を超えていたこともあり、「やればできる」と思い続けていた。

「そしたらセンター試験の結果、受かるどころか受けるのもムリ、とわかった。浪人が決まってもまだ、『1年ちゃんとやれば行けるやろ』と思ってました。もっと言えば今でも、1年くらい真剣にやれば東大に行けたと思っています」

結局、Wさんは2浪の末関西学院大学に進む。

「小学校時代は、灘に行きたくて死ぬほど勉強しました。でも、大学受験にはそこまでの情熱は持てなかったですね。1年頑張り抜くこともできなかった」

もう一人、2浪で成蹊大学に入ったYさん。

「中高時代は、部活と競馬に明け暮れました。楽しくて勉強する気にはなれなかったですね。僕は成蹊大学に行ってすごく良かったと思っています。灘は勉強だけのトップだけど、成蹊には『本当の上流階級』の同級生たちがいた。大企業の社長の息子とか、政治家の娘とか。東大に行った同級生より、社会の広さを知ることができたと思います」

Yさんは卒業後、大手電機メーカーに就職、たまに「キミ、灘高なんだって、スゴイね!」と言われながら、楽しくほどほどに仕事をしている。

Yさんのケースは、実は非常に示唆に富んでいる。大学生、そして社会人になった時、灘高生にのしかかるのが、前述した「均質性」の問題だ。灘高文系の卒業生の多くは弁護士か官僚になる。また驚くべきことに、卒業生全体のなんと4分の1が、医者になる。

灘中高→東大法学部→高級官僚(人によっては中学の前に進学塾)という人生を想像してほしい。周囲は概ね、自分と同じ境遇の人間たちだ。逆に言えば、そうした境遇しか知らずに育つことになる。

「外では出さないようにしているが、役所の中では、『俺たちは特別だ』という意識で仕事をしている」(官僚になった卒業生)

そういえば、阪神タイガースを手中に収めようとして、ファンと関西財界の猛反発を買った村上世彰(よしあき)氏も灘高卒の元官僚だ。

「僕は阪神電車に乗って6年間、中高に通った。とても愛着がある」

と語ったが、受け入れられることはなかった。おそらく極めて優秀な人物で、先進的な人々からは絶賛されたが、「大衆の心をつかむ」力はなかった。ある意味、灘高生の限界だったのかもしれない。

一方の医者。もちろん、使命感や倫理観の強い人もいるだろう。だが、灘高の医学部志望者のなかに、「とりあえず勉強ができるから医学部に行く」という発想の生徒は、けっして少なくなかったのは事実だ。

灘高から京大医学部に進み、現在は神戸市内で眼科医院を開業する西村衛が言う。

「灘卒のダメな医者は、けっこうな数いると思います。患者さんの目が見られず、顔をそむけたまま診察するような人もいました。臨床医には絶対にコミュニケーション能力が必要。テストの点数が良いから医者、という考えはやめたほうがいいと思います」

勉強以外に何ができるんやろ

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とはいえ今も、灘高生の医学部志望は増え続けている。なぜ医者なのか。背景には「親の刷り込み」もあるようだ。

「母親は、『せっかくなれるんだから、お医者さんになったらいいわよ』と昔から言っていた。父親はサラリーマンで母は主婦、両親が天下国家を論じる姿を見たことはないし、東京で一旗揚げろと言われたこともない。母親が医者に対して持っているイメージは、お金が儲かる上に尊敬される、というものでしょう」(医者になった卒業生)

ここにも、灘の”ローカル色”が微妙に影を落としているのかもしれない。では、企業に勤めた場合はどうか。これは我が身を振り返っても思うが、灘高生はおしなべて呑気で平和主義で、生き馬の目を抜く出世競争に向かない。

先ほどイジメがないという話をしたが、基本的に他人のやることには「不干渉」を貫く。他人は他人、オレはオレ。従って、リーダーやマネジャーとしての資質に欠けている人間も多い。

これまで挙げたのは、あくまで灘高生の「平均的な特徴」である。どんな業界であれ、リーダーシップとチャレンジ精神を発揮している卒業生はいる。東大法学部を卒業後、ネットゲームなどを扱う「芸者東京エンターテインメント」を立ち上げた田中泰生もその一人だ。

「明日をも知れない仕事ですが、『自分はプレーヤーとして戦っている』というやりがいを感じます。灘の卒業生を見ていて、もったいないな、と思うことは正直ある。灘高生の発想の基本は『ミドルリスクミドルリターン』。常に均質な世界にいて、社会人になってもそこから出ようとしない人が多い。みんなスゴイ能力を持っているのに、『甲子園球児が大学で野球サークルに入る』といったイメージでしょうか」

極めて優秀な子供たちが集まり、均質かつ関西ローカルの環境で6年間のほほんと過ごし、社会に出てからハッと気がつく。

「俺って、勉強以外に何ができるんやろ・・・」

そこから奮起できるかどうかは、まさしく本人の頑張り次第。灘高に入ったからといって幸せな人生が約束されているわけではもちろんない。ただ一つだけ確かなことがある。すべての灘高卒業生は、その後の成功不成功にかかわらず、

「俺は灘高生だった」

という思い出を、心のどこかに大切に抱いて生きている。

 

引用元:http://gendai.ismedia.jp/articles/-/545