「あの人も!?」人徳者な志村が嫌うイジメをやってる大御所達

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志村が嫌っていた大御所とは・・・

何故、そこまで犬猿の仲まで発展してしまったのだろうか?

 

 

芸能界では人徳者として知られる志村けん

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1968年、卒業間際にザ・ドリフターズ(以下ドリフ)の付き人になる。

この際、リーダーのいかりや長介が志村を強引に東北地方巡業へ付き合わせたため、出席日数が足りなくなり中退の扱いにされてしまったと言われる。

 

2007年3月の公式ブログでは、高校卒業前の2月からドリフの付き人になり、午前中だけ時間を貰い慌ただしく卒業式に出席し、仕事に戻ったと述べている。

のち、放送大学教養学部修了。

 

コント55号とドリフのどちらに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選び、1968年2月にいかりやの家へ直接押しかけ、雪の降る中、いかりや本人が夜中に帰ってくるまで12時間ほど待ち続けた。

 

1週間後にいかりやから弟子入りを認められ、ドリフの付き人となる。

当時のドリフは積極的に音楽活動を行っていたため、仲間内では「付き人」ではなく「バンドボーイ」(通称ボーヤ)と呼ばれていた。

 

加藤茶の付き人となるが、1年余りで一度脱走し、バーテンダーなどのアルバイトをしたりしていた。

仲間が伝えるのを忘れたせいなのか脱走したとメンバー内で騒がれていた。

 

戻ってくる時はいかりやの家に行きにくかったので、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、

「2度も弟子入りするやつはよくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。

 

その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。

 

志村は運転免許を持っていないため、無名の付き人だったにもかかわらず、当時国民的人気者の加藤が運転する車の助手席にふんぞりかえったまま帰宅し、

加藤を差し置いて母親に晩御飯を用意してもらったり、先に風呂に入ったりという非常識っぷりを見せたという。

 

このような経緯で芸能界入りを果たした志村だったが、いかりや長介からは、散々イジメられていたらしい・・・

 

だからこそ、志村けんはイジメをする奴が大っ嫌い。

 

それが理由で、犬猿の仲とされている大御所2人がコチラ・・・

 

 

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