他界してから数年…桜塚やっくんのブログが怖すぎる…あの高速道路の真相と原因は?

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しかし、同年12月上旬頃、少女が逃走しようとした上に警察への通報を図ったことに腹を立て、少女の顔面を拳で多数回にわたって殴り、少女の足首にライターの火を押し付けて火傷を負わせるなどします。

 

その後も、時に別の不良仲間を加えるなどして、少女を全裸にしてディスコの曲に合わせて○踊りさせたり、自○行為を強要したり、少女の顔にマジックペンで髭を描いて興じたり、少女の陰○に鉄筋を挿入して何回も出し入れしたり、肛○にガラス瓶を挿入するなどの異物挿入をしたりしたそうです。

 

そして、少女にシンナーを吸引させてウイスキー、焼酎などの酒を一気飲みするよう強要し、寒気の厳しい夜中、少女を半○でベランダに出して牛乳や水などを多量に飲ませ、たばこを2本一度にくわえさせて吸わせるなど度重なる暴行、凌辱を繰り返します。

 

同月中旬から下旬頃、少女が失○した尿を踏んだということを口実に、少女の顔などを拳で何度も殴りつけ、少女の顔面が腫れ上がり変形したのを見て「でけえ顔になった」などと言って笑ったなどということもあります。

 

更に少女の太もも、手などに揮発性の油を注ぎライターで点火し、火が消えると更に同じような行為を繰り返して火傷を負わせ、この頃になると少女は度重なる暴行に耐えかねて「もう殺して」などと哀願することもあったそうです。

 

 

その後から少女は少量の食物しか与えられず、年末頃には牛乳をわずかに与えられる程度になり、栄養失調と少年らの度重なる暴行により心身ともに極度の衰弱状態に陥り、食欲は減退して顔面は腫れ上がり、手足などの火傷は膿みただれて異臭を放つなどし、階下のトイレへ行くことも困難で、終日監禁場所で横たわるようになります。

 

そして1989年1月4日、少年らは賭け麻雀に大敗した後、麻雀に負けた鬱憤を少女へのいじめによって晴らそうと考え様々な方法で少女へのリンチを開始しました。しかしこの頃には少女はされるがままになっていました。

 

その日の一日の暴行は当日の午前8時頃から10時頃まで、約2時間にわたって休みなく続けき、少女は重篤な傷害により、同日午後10時ころまでの間に死○してしまいました。

 

その翌日少年らは少女が死んでしまったことを知り、遺体を遺棄しようと企て、遺体を毛布で包み、大型の旅行かばんに入れてガムテープを巻きつけ、仕事先からトラックを借り出したり、セメントを貰い受けて近くの建材店から砂やブロックを盗み出し、トラックで遺体と付近で取ってきたごみ入れ用のドラム缶運び、そこでコンクリートを練り上げて遺体の入ったかばんをドラム缶に入れ、コンクリートをドラム缶に流し込み、更にブロックや煉瓦を入れて固定し、ドラム缶に黒色ビニール製ごみ袋を被せてガムテープで密閉しました。

 

その後トラックでドラム缶を運び京都江東区若洲の埋め立て地に遺棄しました。

 

ここから警察の捜査が始まります。

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